公益財団法人 国家基本問題研究所
https://jinf.jp/

国基研ろんだん

  • HOME
  • 国基研ろんだん
  • 「百年河清を俟つ」でいいのか、髙池氏の異議に答える 西修(駒澤大学名誉教授)
2017.06.12 (月) 印刷する

「百年河清を俟つ」でいいのか、髙池氏の異議に答える 西修(駒澤大学名誉教授)

 まず私の第9条の改正論に対する基本的な立場を説明しておきましょう。
 私は年来、自衛のための戦争や武力行使、および自衛のための戦力保持は、憲法に違反してはいないという解釈をとってきています。
 詳細は省きますが、第1に第9条の原案たる『マッカーサー・ノート』には、明白に侵略戦争のみならず、自衛戦争の放棄も明記されていました。同ノートを条文化した民政局次長のチャールズ・ケーディスが、自衛戦争放棄の文言を、「非現実的」であるとして、削除しました。このことは私自身、1984年11月にケーディス宅を訪問し、ケーディスの口からはっきり聞きましたし、いまや多くの人の知るところとなっています。
 第2に、いわゆる芦田修正によって、第2項の冒頭に「前項の目的を達するため」の文言を入れられたことにより、「戦力」の不保持が無条件でなくなりました。
 第3に、極東委員会がこの修正に鋭敏に反応し、自衛のためであれば、戦力たる軍隊の保持が可能になったと判断し、修正そのものには異を唱えず、ミリタリー・コントロールになることを排除するために、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、シビリアンでなければならない」とする条項を絶対に入れるよう要求しました。その結果、貴族院で審議らしきものをせず、現在のいわゆる「文民条項」とされる第66条2項が押し込まれたのです。それゆえ、第66条2項の条文を素直に読めば、「文民」以外の存在、一般的には「軍人」の存在が前提とされていることが分かります。

 ●9条と66条2項を別個に解釈する誤り
 政府は、極東委員会での議論が芦田修正に起因するものであることをまったく知らず、第9条と第66条2項を別個のものと解釈してきました。いわば強引に押し込まれた第66条2項のいきさつは、押し付けそのものといえ、日本国憲法成立過程のいびつさを象徴しています。また極東委員会の議論を精査せず、両者の不可分の関係に着目しないまま第9条を解釈してきたことに、混迷の根源があるのです。
 以上の経緯にかんがみれば、自衛のための戦争や武力行使、および自衛のための戦力保持を合憲とする私の解釈に行き着くはずです。これは解釈の仕方の問題でなく、事実を直視するという、いたってシンプルな問題です。このシンプルな問題を何年、私が言い続けていることか。
 それゆえ、私の解釈をとることにより第9条の問題は解決されるのですが、70年間のたまりにたまったおりを拭い去ることは、容易ではありません。
 ではどうするか。望ましいのは、あいまいで幅の広い解釈に決着をつけるべく、第9条の2項を削除して、「軍」(名称は、軍隊、国防軍などいくつかあり)の存置を、憲法に明文化することです。私は、文春新書『憲法改正の論点』で、「軍」の語を入れた第9条の改正案を提示しました。しかしながら、憲法を改正して、「軍」の語句を導入することに多くの国民が拒絶反応を示していることは、歴然たる事実です。政党においても、公明党は反対しています。憲法改正を実現するためには、いうまでもなく、両院でそれぞれ総議員の3分の2以上の賛成と国民投票による過半数の承認を得なければなりません。はたして、「軍」にこだわり続けることによって、憲法改正が可能でしょうか。前稿で私が指摘したような「百年河清を俟つ」ことになるのではないでしょうか。

 ●交戦権否認は自衛権の放棄にならず
 最も大切なことは、一方で平和をうたい、わが国が平和立国であることを宣明すると同時に、その平和を担保するための安全保障装置を憲法へ導入することです。このような平和と安全のための条項を設定することは、世界の憲法常識です。であれば、現存の自衛隊を憲法上、明確に位置づけるという第3の選択肢に行き着くのではないでしょうか。前稿の私案は、第3の選択肢であることをご理解いただきたい。
 髙池氏は、私の第9条解釈に賛意を示しつつ、自衛隊を憲法上、位置づけることについては、2つの理由から反対を表明します。1つは、「交戦権」の否認がそのまま残るというものです。「交戦権」が、「戦いを交える権利」でないことは、髙池氏もご存じです。「交戦権」とは、一般に「国際法上、交戦国に認められている権利」であって、たとえば武力攻撃をしてきた敵を殺傷するとか、敵国を占領し、占領地の行政をおこなうなどが包含されます。自衛権と交戦権とは同じではありません。わが国が自衛権の行使として敵を殺傷することは当然に認められます。ただし、占領地行政までおこなうのは自衛権を超えるといえるでしょう。そこで、「交戦権の否認」が残っても、自衛権を行使することの妨げにはなりません。

 ●優先すべきは憲法への「自衛隊」明記
 第2の懸念、すなわち、自衛隊が「戦力」でないことに対する懸念について。この点につき、私自身、自衛隊はいまや世界でも有数の実力集団であり、「戦力にあらず」という政府解釈を批判してきました。私の解釈に立てば、「自衛戦力」としての自衛隊は合憲なのですから。政府は「戦力」を「必要最小限度を超える実力」と解してきました。それ以前の警察予備隊や保安隊の時代には、「戦力」を「近代戦争を遂行するに足る実力」と定義づけていました。自衛隊になってから、現在の解釈に改めたのですが、発足当初から比べると実力に格段の差があります。いまや最先端のイージス艦を備え、世界に伍す武器を保持しています。そして、限定的な集団的自衛権の行使も、「自衛のための必要最小限度」の範囲になりました。「自衛のための必要最小限度」の中身をどうするかは、国際社会の変化などを見据え、世論などを背景に、国会が決める問題です。かつて鳩山一郎首相(当時)は、自衛隊を「戦力なき軍隊」と言っていたことが想起されます。
 私案の第9条の2の1項で自衛隊法第3条を導入することにより、従来の解釈との整合性を図ることができます。憲法に安全保障装置を規定することが何より大切です。「軍」にこだわり、いつ実現するかわからないことと、「自衛隊」を位置づけることの必要性と意義を比較考量すれば、後者の選択にならざるを得ない、というのが私の真意です。