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2016.01.12 (火) 印刷する

日印関係の基礎に交流の歴史あり 冨山企画委員

 国基研の冨山泰企画委員は1月5日、ニューデリーで開かれたシンポジウムで、「日印パートナー関係の基礎に人的交流の歴史あり」と題して講演した。

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シンポジウムで講演する冨山企画委員(中央)

同委員はこの中で、日本とインドのパートナー関係が昨年12月の首脳会談で新段階に入ったことを指摘するとともに、親密な両国関係の基礎には日本とインドが互いの文化と伝統を尊重し、自立自存のため助け合ってきた歴史があると説明した。

その上で、①インド独立に果たした日本の役割 ②戦後日本に対するインドの温情 ③明治期の日本に感銘を受けたインド宗教指導者―についてエピソードを紹介した。

(講演草稿は下記掲載。英語原文はこちら。)

今回のシンポジウムは、2014年に下村博文文科相(当時)の訪印で合意した近現代の日印関係に関する共同研究の開始を記念して5、6の両日開かれたもので、日本学術振興会とインド歴史研究協議会が共催した。

シンポジウムでは、米ハーバード大学のスガタ・ボース教授が基調講演を行い、父方の祖父の弟に当たるインド独立闘争の指導者チャンドラ・ボースと戦時中の日本の関係などについて語った。

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スガタ・ボース教授(左)と冨山企画委員

日印共同歴史研究開始記念シンポジウム
インド・ニューデリー/2016年1月5日

日印パートナー関係の基礎に人的交流の歴史あり
国基研研究員 冨山泰
 

 昨年12月12日、安倍晋三首相とナレンドラ・モディ首相の首脳会談で、日印の特別なパートナー関係はさらに強化されることになった。具体的には、両国は原子力協力協定の締結に原則合意したほか、ムンバイ―アーメダバード間高速鉄道建設における日本の新幹線方式の採用、米印マラバール軍事演習への日本の定期的参加、日印豪3国対話開始に合意し、防衛装備・技術の移転協定も締結して、日印協力は新次元に高められた。

このうち特に注目されるのは、長年の懸案だった原子力協力協定について、二つの大きな障害を乗り越えて協定を締結するという政治的決断が下されたことだ。二つの障害とは、インドが核実験を実施した場合の日本の対応と、インドで原発事故が起きれば事業者のみならず原子炉製造者の責任も問うというインド国内法の規定だが、これを協定締結の障害とせず、解決策を見いだすことで両首脳が一致した。

日印が協力関係を新次元に高めた背景には、国際情勢の地殻変動がある。その原因は中国の台頭、米国の内向き志向そして「イスラム国」のような非国家テロ組織の登場である。

中国は強大になった経済力と軍事力にものを言わせて、米国中心の既存の国際秩序に挑戦している。アジアインフラ投資銀行(AIIB)創設と「一帯一路」構想は中国主導の金融・開発秩序を築く試みであるし、習近平中国主席は米国を排除したアジアの地域安保機構の構築を提唱したこともある。南シナ海で国際ルールを無視した人工島建設と軍事施設建設を進めているのは、米軍事力を中国近海から排除する戦略の一環と解釈できる。

一方、米国はオバマ政権の下で「世界の警察官」であることを放棄し、海外での軍事力行使に極めて慎重になった。シリアとイラクで英国の面積に匹敵する広大な土地を支配する「イスラム国」に対して空爆中心の限定的な武力行使をしているものの、本格的な地上軍の投入には踏み切れない。中国が人工島の軍事化を続ける南シナ海では、10月に米海軍イージス艦を派遣して「航行の自由」作戦を実施したが、同作戦を「四半期に2回かそれ以上」実施するというペンタゴン当局者の発言にもかかわらず、2015年第4四半期は2回目の作戦が実施されないまま過ぎた。

国際情勢の大変動を受けて、安倍政権は米国に完全に頼っていては日本の安全を守れないことを認識し、集団的自衛権の行使容認で日米同盟を強化する一方、インド、オーストラリア、東南アジア諸国など、中国の強引かつ覇権主義的な行動を警戒する諸国との協力促進に努めてきた。

特に日本とインドは、政治、経済、安全保障の利益を共有し、自由と民主主義、法の支配を尊重する共通の価値観を持っていることに加え、長い交流の中で互いの文化と伝統を尊重し、自立自存と発展のため助け合ってきた歴史がある。この歴史を基礎に今日の日印パートナー関係が構築されている。

インド独立への日本の貢献

日本が明治維新で近代化を開始した19世紀末以降の日印交流の歴史を振り返るとき、第一に指摘しなければならないのは、インドの独立達成に果たした日本の役割である。

1904~05年の日露戦争で、アジアの日本が白人の大帝国ロシアを破ったことは、西洋の植民地にされていたインドを含むアジアの諸民族に大きな衝撃と希望を与え、独立運動を鼓舞した。インド初代首相のジャワハルラル・ネルーは、日露戦争での日本の勝利にアジアの老若男女全てが興奮し、ナショナリズムがアジアに広がったと書き記している。

1915年、日本はインド独立闘争の支援基地となった。反英運動の闘士ラース・ビハリ・ボースが同年、決起に失敗して日本へ亡命した。ビハリ・ボースは東京・新宿のパン屋、中村屋にかくまわれ、日本で独立運動を続けて「中村屋のボース」と呼ばれた。

余談になるが、中村屋のボースは店主の娘と結婚し、中村屋に純インド式カレーのレシピを伝えた。100年後の今も中村屋が経営する新宿のレストランは日本人好みに味を少しマイルドにした「インドカリー」を提供して大繁盛し、食を通じた日印交流に貢献している。

そして、もう一人のボースである。シュバス・チャンドラ・ボースについては、実兄の孫であるスガタ・ボース教授の先ほどの講演に付け加えることはあまりない。しかし、私がここで改めて強調したいのは、チャンドラ・ボースがインド国民軍(INA)を率い、日本軍と組んで英国と戦ったことが戦後のインド独立に大きく貢献したということだ。

日本軍とINAがビルマからインドへ進攻したインパール作戦は無理な作戦立案のため悲惨な失敗に終わったが、INAが真の愛国者として勇敢に戦ったことが戦後のインド国民に知られ、INA幹部を反逆者として軍事裁判にかけようとした英国への反発が高まった。それはインド国民の暴動や兵士の反乱を誘発し、英国にインド支配の終焉を認めさせた。

インド独立はマハトマ・ガンジーの非暴力不服従運動だけで実現したのではなく、チャンドラ・ボースの武力闘争とそれを支援した日本の役割を抜きにしては語れない。

スガタ・ボース教授の著書にも出てくるが、実はチャンドラ・ボースは1930年代の日本の対中政策と日中戦争の拡大に批判的だった。しかし、日本の対米英戦争については「アジア解放」の大義があると信じていた。

日本の戦争目的が「アジア解放」にあることを宣言した1943年の大東亜会議(東京)に、チャンドラ・ボースは自由インド仮政府首班としてオブザーバー参加した。チャンドラ・ボースは演説で、1904年に日本がロシアに決起して以来、日本には新東亜の建設で指導的立場に立たねばならない使命が生じたと論じ、アジアが西洋の植民地支配から脱する上で日本の役割が大きいことを強調した。

残念なことに、私が高校で習った日本の世界史教科書にチャンドラ・ボースは登場せず、インド独立に日本が果たした役割も記述がなかった。戦前・戦中の日本を全否定した日本の戦後教育の悪弊である。今回始まる日印共同歴史研究の成果が日本の学校教育に生かされることを願ってやまない。

戦後日本へのインドの温情

日印交流の歴史で第二に指摘したいのは、インドが日本の戦争責任を一方的に断罪する立場に立たず、敗戦国日本に思いやりのある態度で接してくれたことである。

戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で、インドのラダビノード・パル判事は、欧米が自らの侵略戦争や戦争犯罪を棚に上げて日本の指導者を処罰することの理不尽さを突き、被告全員の「無罪」を主張した。パル判事が今も多くの日本人に感謝されていることは、顕彰碑が東京の靖国神社と京都の霊山護国神社に建てられていることでも分かる。

東京裁判とパル判事については、パル判事の主張やその背景をめぐり、日本でさまざまな研究書や研究論文が発表されている。しかし、残念ながら今日のインドに、パル判事の研究者はそれほど多くないようである。パル判事の研究者がインドに増え、日本の研究者との交流が盛んになり、研究がさらに深まることを期待したい。

ネルー首相も日本に同情的だった。1951年、サンフランシスコで日本との講和会議が招集されると、インド政府は参加を断った。ネルー首相は、サンフランシスコ会議は戦勝国が敗戦国日本を裁く場になる恐れがあり、日本はインドに何も悪いことをしていないのだから出席しないと言った。インドは翌年、日本と別個に平和条約を結んだ。サンフランシスコ条約では日本政府や日本国民の在外資産は全て没収されたが、インド国内にあった日本資産は返還された。

安倍首相が演説でよく言及するのは、祖父の岸信介首相がネルー首相から受けた温かいもてなしである。1957年、岸は首相として初めてインドを訪問したが、時のインド首相ネルーは野外集会に岸を連れ出し、「これが私の尊敬する国日本から来た首相だ」と数万の民衆に紹介した。安倍は幼いころ岸の膝の上でこの話を何度も聞かされたと振り返り、「岸は敗戦国の指導者として、よほどうれしかったに違いない」と言っている。

日印交流の先駆者

第三に、日印交流の歴史には、明治期の日本を訪れ、日本人の国民性に深い感銘を受けた先駆者が存在することを知っておくべきだろう。インドの著名な宗教指導者スワミ・ビベカナンダが1893年、世界宗教会議に出席するため船でボンベイ(現ムンバイ)からシカゴへ向かう途中、日本に3週間立ち寄ったことはほとんど知られていない。

ビベカナンダは日本人の慎ましく清潔なたたずまいに感心し、信者に手紙を送って次のように書いた。

日本人は世界で最も清潔な人々だ。全てがきちんと整頓されている。……日本人は身のこなしや立ち振る舞いが絵のようだ。日本は絵になる国だ

当時、日本は近代化に踏み切り、富国強兵と殖産興業にまい進していた。それをたたえてビベカナンダはこう書いた。

日本には現代が必要とするものに完全に目覚めている。陸軍は組織化され、海軍は引き続き増強されている。……日本人は必需品を全て自国で生産することに懸命だ

そして、こう続けた。

多くのインドの若者が日本と中国を毎年訪れることを私は強く望む

ビベカナンダは別の信者との対話で、日本が西洋文明を取り入れながら独自の近代化を進めていることを称賛した。

日本では全ての知識が見事に消化されている。……全てを欧州から取り入れながら、同じ日本人であり続けている

マドラスの新聞とのインタビューでは次のように語った。

日本人ほど愛国的で芸術的な人種は世界に例を見ない

(日本が躍進した秘訣は)日本人が自分自身を信じていること、そして母国への愛にある。……日本人は全てを母国のために犠牲にする覚悟ができている。偉大な国民となった

長々と引用したが、ビベカナンダが日本に受けた感銘と日本に注ぐ温かいまなざしがよく分かる。

日本人とインド人の近代初期の交流としては、思想家岡倉天心と詩人ラビンドラナート・タゴールの交友がよく知られているが、ビベカナンダはタゴール以前に岡倉をインドで歓待している。ビベカナンダこそ近代の日印交流の先駆者中の先駆者と言えるのではないか。

ビベカナンダが日本に注いだ温かい視線は2人のボースやパル判事、ネルー首相にも受け継がれ、今日の特別なパートナー関係を下支えしている。

結論

日印は今日の世界で利益と価値観を共有していることに加えて、過去百数十年間にわたり、互いの文化と伝統を尊重し、助け合ってきた「生来の盟友」である。中国の習近平政権が「中華民族の偉大なる復興」を標榜してアジアでの覇権確立を目指す一方、11月の米大統領選で決まる次期政権が米国の内向き傾向を脱するかどうか不透明だ。

こうした状況にあって、日印が連携を強める必要はますます強まる。これから始まる日印共同研究が両国近現代史の理解を深め、日印協力の基盤を強化することを期待したい。(了)
 

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