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2011.09.07 (水)

 「尖閣」で「対独宥和」の轍踏むな 渡辺利夫

 「尖閣」で「対独宥和」の轍踏むな

拓殖大学学長・渡辺利夫  

 

 

 尖閣諸島海域で中国漁船衝突事件が起こって1年が経(た)つ。昨年9月7日の事件から1カ月ばかりが過ぎた頃、日本政府の対中外交の不作為を憤った友の1人が、どうもこれはミュンヘン会談でのナチス・ドイツ総統ヒトラーに対する英首相チェンバレンの譲歩と同類のものではないかと語っていたことを思い返す。平和を望み確執回避を願うあまり対独宥和(ゆうわ)姿勢をとり続けて、結局は大戦へと向かう分水嶺(ぶんすいれい)となったのが1938年9月のミュンヘン会談であった。

 ≪海洋権益拡大の一環、明らか≫

 西沙諸島や南沙諸島を囲む南シナ海はもとより、日中中間線をまたぐ東シナ海での中国の海洋権益の急拡大について、知識がなかったわけでもあるまい。中国が「領海法」を制定して尖閣諸島を自国領だと主張していること、尖閣周辺の領海内に幾度となく中国の漁船や艦船、時に潜水艦が侵入して挑発的な行動に及んだことは何度も報じられてきた。ベトナムやフィリピンが南シナ海で中国からの攻勢を受け窮地に陥っていることは、日々の報道の事実である。その程度の初歩的な情報をもってしても、昨年の漁船衝突事件が近年の中国海洋権益の拡大行動の一環であることがわからなかったはずはない。

 それにしては、日本の政治家や政府のあの時の対応は何だったのか。領海に侵入して日本の巡視船から退去命令を受けたもののこれを無視、あろうことか巡視船に2度にわたって体当たりした中国漁船の船長を公務執行妨害罪で逮捕したのは当然のことであった。

 中国政府は直ちに無条件釈放を要求、同時に漁業監視船を尖閣海域に派して日本を威嚇した。石垣簡易裁判所が中国人船長の身柄勾留(こうりゅう)延長を認めるや、訪米中の温家宝首相は船長を釈放しなければ一層の対抗措置をとると述べ、レアアース(希土類)の輸出禁止、日本の建設会社社員4人の身柄拘束といった対抗策に打って出た。

 ≪「ミュンヘン」に似た幕引き≫

 那覇地検は9月24日、“日中関係の将来に配慮して”船長を釈放した。船長釈放によって衝突事件の「幕引き」を図ろうとした官邸が地検に圧力を加えての見え透いたシナリオであった。幕引きは成らず、逆に中国政府は日本の政権中枢の薄弱な意思を察知して「謝罪と賠償」を要求した。成都では2005年 4月以来最大の1万人を超す反日デモが起こり、日本のスーパーが襲撃対象となった。

 10月29日、ハノイで開かれた東アジアサミットで予定されていた菅直人-温家宝会談は中国側からキャンセルされ、11月23日の横浜での APEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議の際に、菅-胡錦濤国家主席のトップ会談がようやく実現したものの、会談はわずか20分、漁船衝突事件への抗議は実におざなりであった。

 日本の政府と政治家は軋轢(あつれき)をひたすら恐れ、日中間の平和が取りあえず維持されればよしとする、「その日暮らし」の外交に終始した。日本という国は強硬姿勢に出ればほどなく折れて、中国の主張が罷(まか)り通るという教訓を与えてしまった。

 これが中国漁船衝突事件以降の日中外交の顛末(てんまつ)である。以来1年、南シナ海も東シナ海も中国船舶によって「内海」のごとく振る舞われている。衝突事件後の日中外交をミュンヘン会談と同類のものだとみた友の直感は、「洞察」というに相応(ふさわ)しい。

 ≪強制起訴貫けねば国家に非ず≫

 挽回の機会がなくなったわけではない。今年に入って4月18日、那覇検察審査会が中国人船長の「起訴相当」を議決し、6月28日に那覇地検が改めて不起訴を表明したことを受け、新たに組成された検察審査会が7月18日に再度の起訴相当を議決した。検察審査会が2度にわたり起訴相当を議決すれば「強制起訴」になるというのが日本の法手続きである。検察審査会の議決は国民から無作為に抽出された11人から成り、8人以上の合意を要する。第1回と第2回の審査員は半数が交代している。議決は強固なものである。

 強制起訴は可能か。裁判の1審では被告の出廷を要する。日中間には犯罪人引渡条約がなく、船長逮捕の直後に無条件釈放を要求した中国政府が船長の出廷に協力するとは思われない。しかし、ことは領域という国家主権の最深部にかかわる原則の問題である。ここで日本の原則を中国側に厳然と表明できないのであれば、これは国家ではない。領海の暴力的侵害に対して然るべき司法手続きを粛々と進めることができない国家が、尖閣諸島の実効支配を主張するのは自家撞着(じかどうちゃく)である。

 尖閣諸島に中国人が上陸してここに居座る事態を想定してみればいい。日本固有の領土だから退去せよと日本側が主張しても、中国人船長の強制起訴が議決されたときに、日本の司法当局は何らの法的手続きをとることもなく中国の行動を「黙認」したではないか、といった論法を中国は必ずや使ってくるであろう。日本の新政権指導部がミュンヘン会談の一方の主役となってはならない。(わたなべ としお)

9月6日付産経新聞朝刊「正論」