丸山真男去りて江藤淳来たる 平川祐弘
丸山真男去りて江藤淳来たる
比較文化史家、東京大学名誉教授・平川祐弘
いわき市の大学は3月11日に物理的にも振動したが、精神的にも動揺した。地震津波の天災もさりながら、人災の福島原発に近かったからである。バスでスタッフを一旦(いったん)、他県へ避難させる安全対策を取ったから、現地で授業再開と決定した際には、学生や教師が皆戻って来るか懸念したらしい。
≪時代牽引した知的ヒーロー≫
しかし、学問研究は概(おおむ)ね粛々と続いた。紛争で大学紀要も出なかった1968年とは違い、東日本国際大学は3月に紀要『研究東洋』を創刊したが、先崎彰容(せんざき・あきなか)「徳川朱子学と戦後-丸山真男と江藤淳の儒学」が目を引いた。それを手がかりに戦後日本の知的ヒーローたちについて私見を述べたい。
先崎氏は、丸山『日本政治思想史研究』と江藤『近代以前』で徳川朱子学を取り扱う2人の手つきに戦後思想の一断面が垣間見える点に注目する。思想史とは過去の思想家を複数とりあげ、自分なりの物語を創ることだ。それは自らの生きる時代=戦後からの影響を意識し、その立場を前提に過去を問い質(ただ)すことにほかならない。
どんな経緯で今、自分がこのような「自分」になっているのか、こんな問いとともに「思想史」は登場する。この「自分」への問いが、時代全体を揺るがす亀裂を問うのに成功したとき、時代を牽引(けんいん)する思想家が誕生する。丸山と江藤の2人はそんな知的ヒーローになれたという意味で立場を超えた共通性がある、と著者はいう。
東日本国際大学は幕府の学問所の後身を自負している。それもあって先崎氏は日本朱子学の祖藤原惺窩(せいか)(1561~1619)と昌平黌(しょうへいこう)を開いた林羅山(1583~1657)を、丸山、江藤の2人がどう理解したかに注目した。
「朱子学の理は物理であると同時に道理であり、自然であると同時に当然である。そこに於ては自然法則は道徳法則と連続している。『天ハ上ニアリ地ハ下ニアルハ天地ノ礼也。此心ヲ天地ニヲシヒロムレバ君臣上下人間ミダルベカラズ』。羅山における自然法の究極的意味が現実の封建的ヒエラルヒーをまさに自然的秩序として承認することにあるのは当然であろう」。丸山はこう述べ、徳川思想史が「すべて封建的社会秩序を無条件に肯定」したと断定する。「徂徠学も封建的支配関係そのものを絶対視していることに於て何等の相違もない」。しかし、丸山は「その絶対視する論理的道程に至っては正反対に対立する」。
それというのは、徂徠学は社会秩序を恒常不変のものとみなさず、社会関係が自然的な均衡を失った際は、「誰が社会的安定を回復させるのか」と問うことができたからである。そこから人為的なもの、「誰」つまり人間がつくった制度であれば、変えればよいという柔軟な思考が生まれる。
≪歴史認識に決定的な違いあり≫
丸山は戦時下の日本で遺書のつもりで執筆し、「中世的な社会=国家制度観と近代市民的なそれとの対立という世界史的な課題を内包している所以(ゆえん)を明らかに」しようとした。そんな丸山は戦後、8月15日に超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や初めて日本国民は自由なる主体となったと述べた。朱子学と徂徠学との対立の分析の丸山の物語は、このように儒学を透かして現代社会を語っている。また、それだからこそ多くの読者の共感を集めたのだと先崎氏は観察する。
だが、江藤淳は丸山のそんな物語に不満だ。江藤は丸山を代表とする戦後知識人が、敗戦の屈辱を直視せず「自由な主体」成立のチャンスだと理想だか空想だかの世界に閉じこもることを批判する。戦勝国側の政治的思惑もあって語られた「平和」と「民主主義」を永遠の理想の登場のように思い込むのは欺瞞(ぎまん)ではないか。かつて惺窩は自明の前提に亀裂が入ることで、自らの血管に流れる公家文化を荒廃から救うために儒学という衣をなかば強制的にかぶることを決意した、と江藤は説明する。
これは、角田柳作編の英文『日本思想原典』を米プリンストン大学で学ぶうちに、少年として日本の敗戦と国家の崩壊を目の当たりにした江藤が、本来は喪失感を出発点に据えなくてはならぬという自覚に達したからだろう。そんな江藤は、丸山一派と違って、明治以来の日本の歴史を全否定するような観念的な見方はしなかった。
≪推薦文に「国士の面影あり」≫
1960年の安保反対で国会周辺で荒れた学生を丸山は民主主義の勝利のように讃(たた)えた。だが、その同じ学生が68年、東大法学部を襲うや、丸山は今度は「暴徒だ」と憤慨した。私は東大教養学部にいて年中行事の学生のストや集団ヒステリーには慣れていたから、学生運動を理想化する気持ちはおよそない。辞職する丸山教授を8年前に学生を煽動(せんどう)した自業自得と見ていた。授業再開となるや、東大非常勤に私は江藤淳を招いた。江頭淳夫(えがしら・あつお)とわざと本名で紹介すると満場の学生がどっと沸いた。先崎論文を読むうち江藤が東工大教授昇格の際に、「国士の面影があり」と推薦文に書いたことなど懐かしく思い出した次第だ。(ひらかわ すけひろ)
10月24日付産経新聞朝刊「正論」