「平成の保守合同」今こそ必要 遠藤浩一
「平成の保守合同」今こそ必要
拓殖大学大学院教授・遠藤浩一
〈3・11大震災〉から1年経(た)った今年は、サンフランシスコ講和条約発効、すなわちわが国の主権回復60周年に当たる。
60年前の講和、保守安定下で
被占領期6年8カ月の日本政治の課題といえば、いうまでもなく、復興と講和だった。とはいえ、焦土の中で国力を回復し国際社会に復帰するのは並大抵のことではなかった。
連合国軍総司令部(GHQ)による苛酷な対日膺懲(ようちょう)政策が執行された被占領期前半の3年4カ月間は、東久邇、幣原、吉田(第一次)、片山、芦田、吉田(第二次)と6つの内閣がめまぐるしく交代した。
後半は、東西冷戦が激化するなか、西側自由民主主義陣営の一員として国際社会に復帰すべく、ふらつきながらも自力歩行を始めた。このときは衆議院議員任期をほぼ全うするかたちで第三次吉田内閣が施政を担当した。吉田茂はこの間、数回にわたって民主党を分断し、“ミニ保守合同”を実現している。
片山・芦田中道左翼連立政権に対しては、連立与党の旧民主党内部に不満が高まっていた。戦前“粛軍演説”で名を馳(は)せた斎藤隆夫は、片山内閣で国務大臣を務めたものの、同内閣崩壊後は政権のたらい回しを潔しとせず、「憲政の常道により吉田自由党に譲るべし」と説いた。左翼との連立に愛想を尽かしていたのである。吉田はこうした意識のズレに楔(くさび)を打ち、民主党から保守政治家を取り込む恰好(かっこう)で、政権基盤の強化拡大をはかっていった。このようにして形成された保守安定政権が、(不完全な形ではあったにせよ)主権回復という難事業を成し遂げたのである。
民主の震災対応に天を仰ぐ
昨年3月11日に大震災が起こるや、筆者は戦後政治の苦闘を想起した。現民主党政権は被占領期前半の混乱期に相当すると思った。本格的な復興は本格的な政権の登場を待たなければならないにせよ、救難や復旧、原発事故の処理などを進めるにあたって政争をしている余裕はない。与野党間で「政治休戦」が成立したのは、やむを得ざる判断だった。
被占領期も前半は混乱したように、しばらくは民主党政権の下、混迷を甘受すべきなのだろう、震災が政権を延命させたなどとは言うまい、嗚呼(ああ)、これは日本国及び日本国民に課せられた試練なのだ-と、天を仰いで自らに言い聞かせたのは、筆者だけではなかったと思う。
もちろん、いつまでも菅直人首相(当時)及び民主党に政権を委ね続けていいというものではなかった。「手術中の医師を代えるべきではない」とか「非常時なのだから挙国一致体制を」といった議論もあったが、平成21年夏の「政権交代」の意味について、政党と有権者が反省し、総括しないことには、挙国一致体制など絵に描いた餅だし、再建も前に進まない。
本格的な復興を進めるにあたっては、莫大(ばくだい)な財源が必要となるが、財源確保は財政再建と同時に進められなければならない。しかも、並行して低迷する経済を立て直すことが求められるし、原発事故によるエネルギー供給体制の脆弱(ぜいじゃく)化は日本経済に深刻な影響を与えるので、エネルギー政策についても国民の心理的パニックを制御しつつ検討を加えなければならない。さらには、中国の軍拡に対応して国防・安全保障の再建も迫られている。まさに国家にとって最重要の基本問題が山積している。
求む、主権回復時の気概
素人政権には荷が重すぎる。一定の目途がついたところで、菅内閣は退陣すべきだし、そもそも実現不可能な政策を並べ立てて政権を奪取した民主党政権の正統性自体が疑問視されつつあるのだから、なるべく早期に解散・総選挙を実施して、民意を問い直すべきだと考え、当欄も含めて、しばしばそのことを指摘してきた。
ところが、この1年の政治の停滞はどうしたことか。
民主党に「斎藤隆夫」は見当たらない。政権と議席の維持に汲々(きゅうきゅう)とするだけのこの党は、自壊を待つだけだろう。
さりとて自民党への期待感が回復しているわけでもない。目先の政争に関心を集中させて、複雑多岐にわたる国家の再建策について、自分たちが政権を奪回したならばこうするという明確なメッセージを、国民に伝えきれていない。大阪の“橋下旋風”に浮足立つかと思えば、折角(せっかく)、集団的自衛権行使に踏み込んだ「党の基本姿勢」についても公明党の顔色をうかがって腰の定まらない議員が少なくない。「民主党、自民党、どっちもどっち」という評価の固定化が最大の罠(わな)であることを、同党は心すべきである。
国家の再建には、六十数年前の日本がそうであったように、保守政治の再構築-「平成の保守合同」が不可欠である。その主導役を務められないのならば、いっそ解党してくれた方がいい。(えんどう こういち)
3月7日付産経新聞朝刊「正論」