公益財団法人 国家基本問題研究所
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役員論文

2012.07.19 (木)

焼身自殺をテロと呼ぶ中国の狂気 櫻井よしこ

焼身自殺をテロと呼ぶ中国の狂気

 櫻井よしこ  

7月6日、東京を訪れたチベット亡命政府外相、デキ・チョヤン氏は意気軒昻だった。彼女と会うのは昨年9月、インド北部のダラムサラでの会談以来、2度目である。その少し前の8月、ダライ・ラマ法王14世が政治から引退し、政治は全て、ロブサン・センゲ首相以下、チョヤン外相を含めて40代前半の閣僚が大半を占める若い政府に引き継がれた。

チョヤン外相は7月6日の法王の77歳の誕生日を、台湾、韓国、日本の支援者らと共に祝い、チベットの現状をより広く伝えるために来日した。日本では、安倍晋三元首相、下村博文、山谷えり子両氏など自民、民主両党の衆参両院議員らとの会談に続いて、シンクタンク「国家基本問題研究所」と意見交換を行った。

外相は、チベット亡命政府は米国や欧州諸国における強い支持を確立してきたが、祭政一致の政体から通常の民主主義体制に移行したのを機に、より広く、アジア諸国、特に日本との絆を確立したいと語った。

「チベットの現状は非常に深刻です。2009年以降、焼身自殺が続いています。今年初め、センゲ首相が全チベット人に自殺を思いとどまるように呼びかけました。けれど、焼身自殺は続き、これまでに41人に上ります。なぜ、生きたまま身を焼くという最も残酷な方法を選ぶのか。一連の痛ましい死は非常に強い意志に基づく政治的抵抗なのです。41人は幾つかの訴えを明らかにして死んでいきましたが、ひとりの例外もなく訴えていることが2つ、あります。チベットの自由回復とダライ・ラマ法王の中国への帰国の実現です」

中国政府はチベット人に言論の自由はおろか、信教の自由も、チベット語の学習も許さない。

「チベット仏教の寺院には寺院経営と称して、これまでに少なくとも2万1,000人の漢族の役人が送り込まれました。彼らは『2つの徹底』を担います。第1は愛国教育で、中国共産党のイデオロギーを繰り返し学ばせます。第2は法王を悪人として徹底的に非難させることです」

中国政府の悪知恵

チベット人の精神的支柱であるチベット仏教を共産主義イデオロギーで塗り潰し、精神的指導者である法王を犯罪人呼ばわりさせることで、チベット人の心を打ち砕く戦略だ。

中国が粉々に砕ききってしまおうとするのは、チベット人の心だけではない。彼らの伝統的生活を根本から崩壊させるべく、幾十世紀もの間、遊牧生活をしてきたチベット人に定住を強制するのだ。600万人のチベット人の内、約225万人が遊牧民だといわれる。中国政府は彼らの生活向上と、チベット高原の環境を守るためとして、遊牧民に家畜を手放させ、仕事の斡旋を約束し、一時金を与えて煉瓦造りの住宅に定住させる。だが多くの場合、仕事は与えてもらえず、貨幣経済に不慣れな遊牧チベット人は一時金を使い果たし、生活の展望を切り開くことが出来ないでいる。伝統的な暮らしから無理矢理引き剥がされたチベット人は、生きる術も目的も見失い、精神的物理的に破壊されていきつつある。

「中国政府は2020年までに遊牧民全員の定住を実現させたいとしています。仏教を禁じ、チベット語を禁じ、暮らし方まで根こそぎ変える中国政府の統治は理不尽だと、命をかけて世界に訴えているのが、相次ぐ焼身自殺なのです」

チョヤン外相らの悲痛な訴えを掻き消すために、中国政府は想像を絶する予算を使ってチベット情報を捏造する。たとえば、法王も亡命政府首相もチベットの独立は求めていない。にも拘わらず、中国政府は法王や首相は分離独立を目指す反逆者だと主張して、弾圧を正当化する。

中国政府の悪知恵には終わりがない。事実を歪曲し捏造するだけでなく、国際社会や人類の共通認識の根本をも自国の都合に合わせて変えてしまう。チョヤン外相が語った。

「チベットとミャンマーは深い歴史的つながりがあります。両民族の言語はよく似ており、チベット語は言語学上、チベット・ビルマ語派に分類されてきました。ところが中国はこの学問的分類を定義し直し、チベット語は中国語派に属するという新説を打ち出したのです」

チベットは中国の一部という政治的主張のために、学問・研究の基本原則までも改変してしまうのだ。チベット人の焼身自殺についても中国政府は新しい定義を編み出した。焼身自殺者は自殺者ではなくテロリストだというのだ。新しい定義に基づいて中国政府の取り締まりは強化され、苛酷さを増した。自殺をはかっても火を消され生き残った場合、手当をしてもらえず連行される。生きて戻った例はない。昨年3月16日、四川省のアバ地区で焼身自殺をはかったプンツォクという若い僧の事例は、もっと悲惨だった。彼の身体を包んだ炎は、漢族の武装警官によって消されたのだが、そのあと、まさに地獄絵が現実となった。武装警官らは火を消したあと、その場で、息も絶え絶えのプンツォク氏を死ぬまで殴り続けたのだ。

「日本こそ、アジアの大国」

これまでも中国政府はテロリストという言葉でウイグル人を弾圧してきた。01年9月11日、米国が同時多発テロ攻撃を受けた途端に、中国政府は国内のイスラム教徒であるウイグル人をテロリストと位置づけた。アルカーイダ勢力への米国人の恐れを巧みに利用して、中国政府は9・11をウイグル人弾圧の好機としたのだ。そしていま、再び、テロリストという言葉でチベット人弾圧を進めるのが中国共産党である。

狡猾で冷酷非情の中国に対処するには、なんといっても国際社会の支援が必要だ。チョヤン外相は今回、台湾、韓国、そして日本を訪れた。

「どの国も中国を恐れている中で、日本は法王を幾度も受け入れてくれました。センゲ首相も4月に来日し、91名もの国会議員と意見交換をすることが出来ました。日本こそ、アジアの大国で、チベットにとって非常に大事な国です」

自由と民主主義、そして人間を大切にする政治を内外において確立する責任が日本にある。それはアジア諸国のためであり、同時に日本のためなのだ。チョヤン外相が語った。

「法王が政治から引退し、いまチベット亡命政府は若い世代の我々が担っています。センゲ首相はハーバード大学の上級研究員を辞職してダラムサラに戻りました。私もカナダから戻りました。我々はこれからの5年間で、法王の中国への一時帰国を実現させたいと考えています。宗教家として、法王は非暴力を貫き、チベットの独立ではなく、自治を求めると主張してきました。中国が拒絶する理由はないのです」

非常な困難の中で希望を持って闘い続けるチベットの人々に、限りない支援を送るのが日本のとるべき正しい道である。

『週刊新潮』 2012年7月19日号
日本ルネッサンス 第518回