公益財団法人 国家基本問題研究所
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役員論文

2012.09.19 (水)

「全員帰還」を日朝協議の条件に 西岡力

「全員帰還」を日朝協議の条件に

 東京基督教大学教授・西岡力 

 

 拉致被害者の早期救出を呼びかけた9月2日の国民大集会で、曽我ひとみさんは「月や星を見ながら、ずっと日本から助けが来るのを待っていました」と語った。小泉純一郎首相が訪朝し、金正日総書記に拉致の事実を認めさせて10年。曽我さんら5人の被害者と家族は帰還した。だが、多数の被害者は今も北朝鮮の地で抑留され日本からの助けを待っている。

 ≪秘密が妨げた全被害者の解放≫

 10年前、金総書記は全被害者を帰還させることはせず、新たな謀略を仕掛けてきた。拉致したのは13人だけで、うち8人は死亡したと通報してきた。横田めぐみさんや田口八重子さんをはじめ多数の被害者は死んだ、あるいは拉致していない、とされたのである。

 なぜか。それは、金正日政権がどうしても隠したい秘密を拉致被害者たちが知っていたからだ。

 10年前の時点で、拉致被害者に日本語などを教わった工作員多数が非合法活動を行っていた。被害者たちが帰還すれば、工作員らの存在が暴露されると恐れたのだろう。大韓航空機爆破犯の金賢姫氏の証言では、田口八重子さんは総書記の秘密パーティーに出席していたという。独裁者の爛(ただ)れた私生活も公開できない秘密だった。

 昨年末、その拉致の首謀者、金正日氏が死んだ。後継者の金正恩第1書記からすれば、父親の犯罪に自らは直接、関係ないし、父親の私生活も過去の話となった。日本人化した工作員も年老いて現役から退いた者が多い。中国に物乞いのように頭を下げ、いくばくかの支援をもらって政権を維持するより、日本との関係を正常化して多額の支援と松茸(まつたけ)やアサリなどの貿易で外貨を稼ぎたい、と息子が考えたとしてもおかしくない。

 ≪遺骨1柱につき4百万円?≫

 8月末に4年ぶりで行われた日朝政府間協議は、統一戦線部の対日担当幹部が指導した。同部は、拉致への日本人の関心も薄れてきたからこの問題を棚上げにし、遺骨などで日本からカネを引き出し国交正常化への雰囲気作りをしようと狙っているようにみえる。

 出席した「外交官」らも実は、統一戦線部傘下の祖国平和統一委員会所属だったという話も聞かれる。彼らは拉致を議題に乗せることをできるだけ引き延ばし、野田佳彦政権から制裁解除や遺骨返還に伴う現金支払い約束を取り付けようとしているのではないか。

 米国は米兵遺骨収集に1柱5万ドル支払った。日本からもほぼ同額の1柱400万円を取ろうとしているという見方もある。だとすれば、北朝鮮には引き揚げ途中に亡くなった軍民関係者の遺骨2万1千柱が眠っているというから、しめて800億円余となる。北朝鮮各地ではすでに、日本人の遺骨がカネになるという噂が広がり、発掘、盗掘ブームが起きている。

 今回の予備協議と同時期に訪朝した遺族の集まり、清津会幹部も面妖な動きをみせている。同会会長は、都内で行われた「日朝国交正常化をめざす全国集会」で拉致には一切言及せず、早期の国交正常化を求める挨拶を行った。集会には朝鮮総連副議長や、めぐみさんは死んでいると公言してはばからない大学教授らが参加した。

 清津会には、よど号ハイジャック犯の田中義三元服役囚(服役中に死亡)の娘も事務局員として入っている。有本恵子さん拉致を告白した八尾恵氏の証言によると、彼女の母、つまり田中の妻、田中(旧姓・水谷)協子氏は有本さんに北朝鮮独特の主体思想などを教える教育係だったという。

 ≪遺族団体覆う統一戦線部の影≫

 娘は北朝鮮で生まれ、平壌郊外の「日本革命村」で、主体思想による日本革命の教育を受け、統一戦線部56課の指導下にある自主革命党に入党したはずだ。2004年に帰国した後も明確な転向宣言はしておらず、今も統一戦線部の指導を受けている可能性が強い。清津会事務局には同部が影響を及ぼしている疑いが濃厚なのだ。ちなみに、菅直人前首相が多額の資金を送り問題になった極左政治団体、市民の党が三鷹市議候補に立てたのも、同じ日本革命村出身で松木薫さん、石岡亨さん拉致犯の息子だった。

 拉致問題で実質進展なしに、調査委員会立ち上げなどという口約束だけがなされ、遺骨と引き換えにカネを提供するなら、米国のライス-ヒル外交と同様、北朝鮮の詐欺にはまる。「行動対行動」原則の厳守が絶対に必要である。

 わが国は協議を通じ、2つの原則を突き付けなければならない。第一に、遺骨などの人道問題を進める前提は全拉致被害者の帰還であること、第二に、日本は横田めぐみさんや田口八重子さんなどの情報を持っており、全被害者を返す以外に道はないことである。

 10年前の小泉訪朝で不十分ながら拉致問題が進展したのは、首脳会談に応じる条件として拉致被害者の消息を出すよう求めたからである。拉致は日朝協議の入り口に置かれていたのである。

 今こそ、政府は国民の怒りを背に、被害者全員の帰還を協議の入り口に置く姿勢をぶれずに貫いてほしい。(にしおか つとむ)

 

9月18日付産経新聞 朝刊「正論」