3月11日を「国民鎮魂の日」に 渡辺利夫
3月11日を「国民鎮魂の日」に
渡辺利夫
≪生きて在る意味に頭を垂れる≫
東北地方のどこの町であったか、会社の仕事で上京していたある男性が帰宅の車中で津波に遭遇したものの辛くも生き延び、引き波が収まった頃を見計らい自宅に戻ったところ、家は完全に消失し、父母、妻、2人の子供のいずれもが行方知れず、以来、夜に日を継いで能(あた)う限りを尽くしたのだが、影さえない。テレビに映り出された男性の顔は憔悴(しょうすい)し切って、目は虚空を泳いでいた。
テレビのショットでみせられただけで、この男性のその後のことは私にはまったくわからない。ただ想像するだけある。
どうしてあの時に家族と一緒にいてやれなかったのかと詮なき自責の念に胸を掻(か)きむしられ、家族ともども自分も引き波にさらわれていたらどんなによかったことかと悔悛(かいしゅん)を繰り返す。
避難所暮らしの数日のうちに、同じような酷薄の運命にある人々が少なくないことに気づかされ、みずからが生きていまここに在ることの意味に次第に頭を垂れるようになる。天を憾(うら)む一瞬さえ与えられずに息絶えた家族、さらには血縁につながる人々、彼らが生を紡いできたこの地のために自分のエネルギーを吐き出さねば、身の証が立てられない。
そう考えてこの男性は、冷厳な現実を記憶から振り払うように、死者の発見や被災者の救援、瓦礫(がれき)の除去に懸命の努力を始めたのではないか。政府や自治体の救援がなぜこんなに遅く拙(つたな)いのか、時に不満が頭をかすめるが、そんな恨みは言葉にはならない。
危機管理の司令塔たる首相官邸や政府指導部の対応に強い憤懣(ふんまん)をぶつけているのは、被災地から遠く、放射能被曝(ひばく)の恐れもない他地域に住まう人々ばかりである。震災の原因の追及も不徹底なままに、地震と津波、原発毀損(きそん)が「想定外」のものであったのか否か、そもそもこの事態は「天災」なのか「人災」なのかといった類の、誰でも思いつくような幼い議論の横行である。
≪被災者の心に寄り添わぬ言説≫
一方に、想定外の天災だといって管理責任を免かれたい人々がいる。他方に、想定内の人災だといい立てて権力の交代を求める人々がいる。慟哭(どうこく)する被災者の心に寄り添う言説はいかにもか細い。
われわれは、太平洋プレート、北米プレート、フィリピンプレート、ユーラシアプレートの4つが織りなす巨大地震源の「巣窟」、世界でも有数の天変地異の国、日本に、粒々(りゅうりゅう)の辛苦を背負いながら生きてきた。
東日本大震災の次に恐れられるのは西日本大震災である。ユーラシアプレートにフィリピンプレートが沈み込んで形成されつつある地層のズレの反転が巨大なエネルギーとなって東海、東南海、南海の3つの地震を連動させるらしい。この連動型地震が今後20~30年の間に起こる可能性は百パーセントに近いといわれる。
首都圏を含む太平洋ベルト地帯という日本の大動脈が東日本大震災級のマグニチュードで襲われれば、いかに壮大で精細な防災計画を施したところで、人知を易々(やすやす)と超える惨劇が各所で発生することは避けられまい。
合理的思考に則(のっと)って防災のありようを徹底的に追究することが重要でないわけはない。しかし、同時に、防ぎようもない厄事がこの世の中には存在するのだという、しなやかな諦観の構えを私どもはもたねばならない。
≪民族ながらえて次の世代に≫
人間は安寧な自然の中で生成したのではない。私どもは過酷な自然の中に遅れて生まれ来たる者なのである。天変地異によって、万が一、民族の半分が消滅してしまったとしても、残りの半分は自然の冷酷な仕打ちを怨(うら)みながら、しかし生き存(ながら)えて次の世代に日本という存在を継いでいかなければならない。
苦境に陥ったときほど生きて在ることをより鮮やかに確認し、生命力を漲(みなぎ)らせて民族の連綿たるを証さねばならない。強靱(きょうじん)なる民族とはそういう存在なのであろう。日露戦争の戦端が開かれたときの明治大帝の、広く知られた御製にこうある。
しきしまの大和心のをゝしさは
ことある時ぞあらはれにける
個々の生命体は必ず滅する。しかし死せる者の肉体と精神は遺伝子を通じて次の世代に再生し、永遠なる生命が継承されていく。その個々の生命体の集合がすなわち民族である。こうした人間的営為はいかにして可能か。苦難の中で喘(あえ)ぐ生者(しょうじゃ)に生命力を発揚させるものは何か。
死者への深い鎮魂である。死せる者があって初めてみずからが生きていまここに在る。合理的思考のみをもって天変地異に立ち向かうというのはただの傲慢である。冒頭に掲げた男性が血縁に連なる者への哀悼を深くして再生にいたることを祈る。
3月11日を、民族の永遠なることを祈念する「国民鎮魂の日」として制定するよう提言したい。(わたなべ としお)
6月10日付産経新聞朝刊「正論」