国防費を超える予算で『中国共産党』の異民族弾圧 櫻井よしこ
国防費を超える予算で『中国共産党』の異民族弾圧
櫻井よしこ
7月1日、創立90周年を祝った中国共産党は、軍事力と経済力に裏打ちされた政治、外交を展開する大国を築き上げた。しかし、その90年の歴史で、彼らは国民を幸福にしてきたか、大いに疑問である。
中国経済は、全国民の0・4%(500万人)が国民所得の70%を占有する異常な富の偏在を生み出し、格差は年毎に拡大した。一党支配の下で、言論の自由も人権も蹂躙される中、中東で発生した民主化を求めるジャスミン革命の波及を怖れるあまり、中国共産党は天安門事件以来の厳しい弾圧を実施中だ。中国の国内秩序は、武装警官、公安、民兵などの組織勢力に、国防費を上回る7兆7,400億円の予算を注入し、厳しい監視と弾圧を行って、初めて保たれている。
中国共産党の弾圧、とりわけ異民族への弾圧は凄まじい。内モンゴル、チベット、ウイグルの状況を取材して見えてくるのは、心底おぞましい中国共産党の民族浄化策である。人間を人間と見做さない共産党流の、三民族への弾圧は、歴史の審判を受けるべき人道に対する罪である。そうした中で、5月に内モンゴルで連続してデモが発生した。
いま、内モンゴルでは急速な炭鉱開発が進行中だ。漢民族は勝手に侵入し、勝手に石炭を掘り、大型トラックで運び出す。道路もない草原を多くのトラックが暴走し、深刻な環境破壊をもたらす。これに抗議したモンゴル人を、トラック運転手が轢き、145メートル引き摺って殺害した揚げ句、「クソモンゴル人一人を殺しても大したことはない」と悪態の限りをついた。この事件を発端に、世界を驚きで包んだデモが発生したのだ。23日の小規模デモに続いて、25日にはシリンホト市で2,000人が政府庁舎を取り囲んだ。その主体は高校生と中学生だった。
内モンゴル人のケレイト・フビスガルト氏は滞日歴11年、東北大学教育学研究科の大学院生である。氏は5月に連続して発生した内モンゴル人のデモに「本当に驚いた」と語る。
「漢民族の内モンゴル人への仕打ちは民族浄化以外の何ものでもありません。言葉に尽くせない弾圧で叩きのめされてきた結果、抵抗する気力も失せ果てたと、内モンゴル人である私自身が思い込んでいました」と、興奮気味だ。
大部の『内モンゴル自治区の文化大革命 モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料』(以下『基礎資料』)をまとめた静岡大学教授の楊海英氏も、内モンゴル人のデモは、もはや起こるはずがないと諦めていたという。祖国を愛してやまない彼らが絶望的な気持ちに陥った背景を知るには、彼らに加えられた弾圧の歴史を見なければならない。
2,000人デモの意味の深さと重要性は、内モンゴルに加えられた弾圧と虐殺の真実を知り、内モンゴルの人口構成を知れば、明確になる。
1960年代から70年代まで続いた文化大革命当時、中国政府の発表で34万6,000の内モンゴル人が「反党反国家謀叛集団」「民族分裂主義者」の内モンゴル人民革命党員として逮捕された。中国政府は死者は2万7,900人と発表したが、実際には5万人から10万人が殺害されたとの見方もある。また少なくとも12万もの人々に拷問による重い障害が残った。楊教授は、「内モンゴル人の全家庭から少なくとも一人の犠牲者が出ていると見なければなりません」と語る。
内モンゴル人の悲劇はさらに続いた。69年に内モンゴル自治区東部のホルンボイル、ジェリム、ジョーウダの各盟(村)が黒龍江省、吉林省、遼寧省に分割編入されたのを皮切りに、内モンゴル人の分割・統治策が促進されたのだ。
漢民族はこれを「●(扌に參)沙子」(沙を混ぜる)と呼ぶ。少数勢力をその10倍20倍の漢族に混ぜ入れて、少数派の消滅をはかるのだ。
彼らの手法は巧妙だ。数で圧倒しつつ、少数派の抵抗を未来永劫、封じ込めるために、指導者の資格を備えたエリート層を一掃するのである。内モンゴルの場合、68年2月15日には「内蒙古反動党団材料」という資料が作成されていた。109の反党的団体と構成員の詳細な情報のまとめである(『基礎資料』)。
「何らかの形で民族自決と地域文化の振興に関わった者」は全て粛清の対象とされたのだ。中国政府がモンゴル族エリート階級の全滅を周到に企図していたのは明らかだ。
「勝手に土地を耕作」
60年代に始まった大弾圧は、80年代に新たな政策として強化された。81年秋に中国政府が内モンゴル共産党委員会に提示した28号文件、漢人農民の内モンゴルへの大量移殖計画がそれである。フビスガルト氏が語る。
「彼らはやってきて、勝手に土地を耕作します。遊牧民のモンゴル人は広い草原を移動しますから、漢族は我々の知らない内に大半の土地を奪えるのです。遊牧と農耕では、土地に与える負荷は比較にならないほど後者が大きい。草原は漢族の流入で荒れ果て、モンゴル人の生活基盤が破壊されました」
これ以上の漢人の大量移住は許さないとして、内モンゴル人は再び大規模抵抗運動を試みた。81年9月から11月までの3ヵ月間、学生たちは授業をボイコットした。楊教授が高校生、フビスガルト氏が中学生の時だった。しかし、抵抗運動は鄧小平の指示で徹底的に弾圧され、拷問が行われ、またもや多くの命が失われた。
50種類もある漢民族の拷問は凄惨を極める。そのひとつが『基礎資料』に「ざらざらした馬の尻尾で編んだ縄を鋸として挽いて、モンゴル人女性の下半身を破壊する」と記述されている。
鋸挽きに耐えられず、苦しみ抜いて息絶えるモンゴルの女性たちを思うと、心底、中国は悪魔の国だと、怒りが湧く。こうした記憶は民族の記憶として、伝え続けなければならない。だが、中国共産党はモンゴル人の被害体験を書き残すことを「違法行為」と定めたのだ(『基礎資料』)。異民族弾圧を闇に葬ろうというのである。
このような異常な弾圧を幾十年にわたって受けた内モンゴル人が打ちのめされたからといって、誰が非難出来ようか。
では、「大人しくなった」モンゴル人を、中国共産党はどう扱うのか。とどめを刺し、完全に存在を消し去るところまで、弾圧を続けるのだ。その具体例が現在も続くハダ氏の拘束である。
抹殺され続けた可能性
フビスガルト氏はフフホトの内モンゴル師範大学で学んでいたとき、民族運動の指導者、ハダ氏に会った。ハダ氏は妻のシンナさんと大学正門近くでモンゴル語書店を経営していた。彼らは92年に知識人の組織、南モンゴル民主連盟(以下、民主連盟)を創立し、まず、高度な自治の確立を目指した。
だが、中国共産党は95年12月、ハダ氏以下、民主連盟の主要な人物を逮捕、書店を閉鎖した。96年12月、秘密裁判でハダ氏に15年の懲役刑が下された。
以下は米国ニューヨークの南モンゴル人権情報センター代表のトゴチョグ・エンフバト氏の情報である。
獄中のハダ氏は明らかに日常的に拷問され、長期間独房に放置された。98年から2001年まで、精神混乱促進剤が投与され、精神の異常に苦しみ続けた。
事情を知った国際社会が抗議の声を強め始めた01年頃から精神錯乱誘発の薬物投与は減少したと見られるが、一方で、中国政府はハダ氏の息子を「強盗に関与」したとして逮捕、2年間服役させた。
昨年12月10日にハダ氏が刑期満了を迎える直前、今度は妻のシンナさんと息子が揃って逮捕された。中国政府はハダ氏一家の写真を時々ネットに公開するが、3人の居場所は不明だ。完全な監視と抑圧で、内モンゴルのリーダーとなるべき人物を事実上、抹殺するのである。
モンゴル人の危機は、チベット人の危機でもある。ダライ・ラマ法王日本代表部事務所代表のラクパ・ツォコ氏は、7月から9月までの3ヵ月間、外国人及び、自治区以外のチベット人のチベット自治区への立ち入りが禁止されることが決まったと指摘、3ヵ月間の完全封鎖で何が起きるかを想像し、危惧を強めている。
チベット人社会はいま大きな歴史的転換期にある。今年5月、チベットの宗教的、政治的指導者の地位にあったダライ・ラマ法王14世が、自らの意思とチベット人社会の民主的手続きによって、政治権力を亡命政府の新首相、ロブサン・センゲ氏に移譲して、政治から引退したのだ。
「法王は新憲法によってチベット及びチベット人の保護者及び象徴となりました。これでダライ・ラマ法王の地位はダライ・ラマ4世以前の純粋な宗教指導者の立場に戻りました」
法王14世の死を待ち、自らの手で15世を選び、傀儡とし、政治・宗教両面にわたる法王の権力と権威を手に握ろうと考えていた中国の思惑が完全に外れたのだ。
「もはや、それは不可能です。チベット社会の政治は、民主的に選ばれた首相、センゲ氏が動かします。氏は43歳、インドに亡命したチベット人の両親から生まれ、フルブライト奨学金で米国ハーバード大の博士号を取得しました。チベット仏教とチベット人の心をよく理解する立派な人物です」
新首相の望みは、ダライ・ラマ14世のそれと同じである。チベット人のアイデンティティーである仏教、言語、文化を守り続けることだ。中国の意図に反する独立は口にしていない。中国が新首相を受け入れない理屈は立たないのだ。
だが、中国は新首相を頭から否定した。中国はチベット人を、モンゴル人同様、消し去りたいと考えているからだ。そのために傀儡となる15世ダライ・ラマを中国が選び、チベット人のアイデンティティーを消し去り、チベット問題を終わらせようとしていた。
76歳の法王の死を待ち望んでいた中国の眼前に、43歳の次世代リーダーが出現し、状況が一変したいま、彼らは一切のまともな交渉を拒否し、徹底した暴力による弾圧政策を打ち出すのではないかと、ツォコ氏らは疑う。
中国の第一の狙いは、チベット人を支える仏教の抹殺である。弾圧は当然、指導層としての僧侶に向かう。
3月16日、四川省アバ地区で若い僧、プンツォク氏が中国当局の残虐な弾圧と不正に抗議して焼身自殺をはかった。警察は炎を消したあと、プンツォク氏を酷く殴り、彼は死亡した。
プンツォク氏が所属していたキルティ僧院には約2,500人の僧侶が生活しているが、武装警察に包囲されて今日に至る。住民らの食糧差し入れも止められ、僧たちの大量餓死が危惧されている。
こうした中で前述のように、7月から3ヵ月間のチベット自治区の封鎖が行われているのだ。08年のチベット抵抗運動のあと、約1年間、外国人はチベットに入れなかった。外国の監視の目がない中で僧侶をはじめチベット社会の指導者が抹殺され続けた可能性は否定出来ない。今回も同様のことが起きないという保証は、どこにもないのである。
中国とて…
武力、暴力、謀略、騙し、全知全能を使って、中国政府は異民族の弾圧に邁進する。だが、世界では一党独裁、言論弾圧、自由の抑制、究極の人権弾圧に対する国民抵抗運動が通信革命で可能になった。内モンゴルでは、住民を轢き殺した運転手は死刑になったが、内モンゴル人の抵抗は6月も続いた。
人類の歴史は、一党独裁体制に替わる民主化を受け入れざるを得ない方向に、ゆったりと、しかし大きく方向転換しつつあり、中国とて、例外ではあり得ないのだ。
『週刊新潮』 2011年7月14日号
日本ルネッサンス 第468回 拡大版