存在感を誇示する声高な少数派 遠藤浩一
存在感を誇示する声高な少数派
拓殖大学大学院教授 遠藤浩一
鳩山由紀夫元首相が、「国民の代表がクルクル代わるようでは、(国際社会での)日本のプレゼンスが見えない」と託宣したという(9月18日、ニューヨーク)。野田佳彦内閣を短命政権にしてはならない、との趣旨なのだろう。
≪耳疑う鳩山氏の回転ドア批判≫
この人の言うことは聞き流そうと、日頃自らに言い聞かせているのだが、報道記事を読めば、やはり心の中に細波(さざなみ)が立つ。
指摘自体は当を得ている。鳩山氏に言われるまでもなく、何代も超短命政権が続くのは異常である。こんなことでは、国際社会から信頼されなくなるだけではなく、国家そのものが立ちゆかなくなる。
が、1年足らずで辞めた鳩山氏にそれを言う資格があるのか。「あなただけには言ってほしくない」と、舌打ちしたくなるのは筆者だけではあるまい。
だからといって、鳩山内閣が2年も3年も続けばよかったと言いたいわけではない。鳩山氏や菅直人氏があれ以上、政権に居座り続けていたならば、「日本のプレゼンス」はさらに低下していたに違いない。「短期政権は好ましくない」という一般論は、劣悪な政権を延命させる理由にはならない。鳩山、菅の両氏、遡(さかのぼ)って自民党政権末期の首相も含め、彼らが1年で辞めたことより、その程度の内閣を粗製乱造してきたことが問題なのである。
そこには、いくつかの背景ないし理由がある。
≪吉田~佐藤と器量の違い歴然≫
第一に考えられるのは人材の劣化という問題である。与野党ともに政治家の質が低下していると、よくいわれる。昭和20年代から30年代に活躍した吉田茂、岸信介、三木武吉、芦田均、西尾末廣、池田勇人、佐藤栄作らと、今日の政治家を比較すると、器量の違いは歴然たるものがある。
ただし注意しておかなければならないのは、短期政権はいまに始まった現象ではないという点である。ほぼ1年単位で交代する昨今の状況は確かに由々しいが、野田氏を除く戦後の32人の首相のうち在職期間が1000日をこえた本格政権は、吉田、岸、池田、佐藤、中曽根、小泉の6内閣だけで、むしろ短命内閣が当たり前のように続いてきている。人材の劣化を嘆くだけでは、この問題は解決しないということだ。
第二は、現行の二院制と選挙制度の問題である。昨今はいわゆる“衆参ねじれ現象”が政権をより不安定にしている。
似たような選挙制度(選挙区と比例代表の組み合わせ)を採用する2つの院の国政選挙を1年から2年の間隔でやっていれば、民意が変わる度に政権が動揺するのはある意味当然である。
衆議院と参議院の役割分担を明確にし、政治の機動性と安定性を担保するには、二院制の是非も含め、抜本的な検討が求められる。少なくとも両院の議員選出方法を根本的に異なるものにしなければ、機能分化ははかれまい。昨今の選挙制度改革論議は、専ら「一票の格差」是正を動機としているが、衆議院はともかく参議院については、絶対平等論から解放された視点が求められる。
とはいっても、「ねじれ」のおかげで、民主党政権の暴走にブレーキがかかっているという側面もある。もちろんブレーキがかかりすぎれば、復興などの懸案は前に進まない。そこで、与野党が協調してこの難局にあたるべきだという声が出てくるのだが、野党なき民主主義は必ず堕落する。悩ましいところである。
また、選挙制度には一長一短があり、その改革ですべてが解決するというのは幻想でしかない。
≪奮起せよ、戦後世代の政治家≫
第三は、政党構造の問題である。長期政権の惰性の中で自己鍛錬を怠り、有権者から見放されてしまった自民党と、政権担当能力を持たぬまま政権を奪取したものの、果たして限界を露呈した民主党。この2つの中途半端な政党が対峙(たいじ)する構造には無理がある。
保守が与野党に分裂して不毛な抗争を繰り広げるのを尻目に、左翼の生き残り-ノイジー・マイノリティー(声高な少数派)が分不相応な存在感を誇示している。菅氏ごときが日本国の宰相に就いてしまったのも、このたびの輿石東氏の幹事長就任もそれである。
野田新首相に期待するものがあったとするならば、それはこの不毛な政党構造を越えた指導力を発揮することだった。が、どうやら、彼は、民主党という小さな器の中の「ノーサイド」で手一杯らしい。
かつて岸信介や三木武吉、あるいは緒方竹虎、大野伴睦らは、民主党や自由党といったちっぽけな器を守るのではなく、国家を再建するという大きな目標に向けて、過去の因縁を封印し、保守合同(昭和30年)という大事業を達成した。器量が違う。おや、話が堂々巡りになってしまった。
とどのつまりは、戦後世代の政治家が、より高い視点を獲得すべく、奮起するしかないということなのである。(えんどう こういち)
10月4日付産経新聞朝刊「正論」