日本再生の年頭に 渡辺利夫
日本再生の年頭に
拓殖大学総長・学長 渡辺利夫
■「忘れられた日本人」の再発見
民俗学者の宮本常一が『忘れられた日本人』を著したのは昭和35年である。冒頭には、対馬西北部の小集落を歩きながら、そこここに昔から伝承されてきた習俗のことが綴(つづ)られている。習俗とは、文化とか伝統といった表現で語ると抜け落ちてしまいそうな、人々のささやかで静かな生活の中に垣間みられるものなのであろう。宮本には、村々の習俗のありようを紡ぎ上げ、読む者の眼(め)に浮かび上がらせる叙述の力がある。
≪宮本常一描く共同体の原風景≫
村で何かの相談事が起こると、人々は講や辻に集まりひたすら話し合って大声を出す者はいない。語りに倦(う)めば勝手に場を離れ自宅に戻り飯を食ったり一休みしたりして、また講や辻に赴いて語りに加わる。どんなに厄介な問題でも3日も話を続ければ大抵は片が付くという。共同体における人間関係の平等性、自治と規律、相互扶助、日本人の原郷としての小集落の深々とした人間模様が宮本の著作には精細に書き込まれている。
宮本は、昭和35年の時点で自身が描写した日本人はすでに「忘れられた」存在となってしまったとみていたのである。日本が高度経済成長、都市化、列島改造の渦中に巻き込まれて社会の隅々までが変容を迫られたのは、本書が出版された直後からのことであった。太平洋ベルト地帯に向けて人口と労働力が唸(うな)りを上げるように押し寄せ、農漁山村は過疎化していった。忘れられたように秘めやかに存在していた共同体も、その過程であらかたが消失してしまったのではなかったか。
しかし、東日本大震災が私どもに露(あら)わにしたのは、少子高齢化に悩まされながらも逞(たくま)しく息づく共同体の姿であった。あの悲劇に立ち向かったのは、共同体に寄り添い力を合わせて復旧・復興へと向かう血縁・地縁共同体の強靱(きょうじん)な絆であった。惨劇に見舞われながらも、地を叩(たた)いて泣き叫ぶ者はいない。巨大な悲しみが静かに広がっているだけであった。
≪被災地で隊員らが見せた国家≫
秩序と規律を乱すことなく、死せる者を深く哀悼し自らを癒やしながら立ち直っていく人々の姿に、屈することのない共同体を私どもはありありと「再発見」することができた。日本人は忘れられてはいなかった。血の通い合う共同体なくして人間は人生をまっとうできない。個としての人間がいかにも儚(はかな)く頼りないものであっても、それぞれの個は共同体につながることによって生きる力を与えられるのであろう。
しなやかな共同体に支えられて、国家もまた初めてしなやかな存在となる、そのように想像力を掻(か)き立てられた日本人も多かったのではないか。少なくとも私がそうだ。あの惨事に際して自己犠牲を厭(いと)わず救援活動に打って出た自衛隊、警察、消防、海保の隊員、医療従事者の行動の中に私どもが再発見したものは国家ではなかったか。決して政府ではない。首相官邸の司令塔機能は信じ難いほどに拙劣であった。政府の対応がいかに拙(つたな)くても、むしろ拙ければ拙いほど、人々は、公の意識をもって献身する隊員たちの行動の中に国家というものの存在を実感し心に深く刻んだにちがいない。
国家とは国民が安んじてそこに帰属し、主権を断固として守り、国民の生命と財産を守護することを運命づけられた大いなる共同体である。政府とは、国家を運営するために必要な機能体以上のものではない。災後に首相や担当大臣が発した言葉には嫌悪の情しか湧かなかったが、陛下が残されたビデオメッセージや被災地慰問のお姿に心を揺るがせた国民はきわめて多かったと想像される。国民は国家と政府が異次元の存在であることを本能的に知っている。極限状況におかれていよいよ強く、そう知らしめられたのであろう。
≪国家観なき政府とは対照的≫
それにしては、日本の執権政党の指導部が胸中に潜ませている、国家に対するあの「反感情」は何なのか。「社会全体で子どもを支える」といって家族再生産の中心的存在である専業主婦を否定しようという「男女共同参画基本計画」なるものが策定されている。血族・姻族・配偶関係を曖昧化して家族を解体したいという情念のゆえなのか、「選択的夫婦別姓制」実現のための民法改正案の議会提出が繰り返されている。
反国家集団を権力の内側に呼び込みかねない「人権侵害救済法」や「定住外国人地方参政権付与法」など、まっとうな国家観を持つ者からは出てくるはずもない危うい法案が想定されてもいる。東日本大震災という一大悲劇に遭遇してなお、共同体と国家に対しこうもあからさまな反感情を募らせる政党に、私どもは政治権力をたっぷりと与えているのである。
2012年、国際秩序再編の激しい時代の始まりなのであろう。愚者と戯れている時間はもうない。志高き友よ、日本の伝統に深く思いを寄せ、新しき時代に向け和して心を構えようではないか。(わたなべ としお)
1月13日付産経新聞朝刊「正論」