公益財団法人 国家基本問題研究所
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役員論文

2012.03.06 (火)

地域エゴを越えてこそ真の同胞 渡辺利夫

地域エゴを越えてこそ真の同胞

 拓殖大学総長・学長 渡辺利夫 

 戦災時、甲府の街は激しい空襲を受け、私の家族は燃え盛る火の中を逃げ惑いようやくにして生き延びた。火の及ばない山の手の自宅で、炎上する甲府を眼下にしていたある友が、中心部に住まう私どもが凄絶(せいぜつ)の中にいるのに、安全な場所で街の劫火(こうか)を眺めているしかない自分がひどく罪深い存在だと思わされた、とある酒席で語っていたことを思い起こす。親しき者の悲劇に身を添わせてやれなかった自分が許せない、そういう懺悔(さんげ)の思いを抱え生きてこそ、人間は人間なのであろう。

 ≪瓦礫の受け入れ拒否の酷さ≫

 大震災から1年が経(た)つ。肉親や地縁の人々を失い、行方不明の人々がまだ3000人を超す。さまよえる魂に慚愧(ざんき)の思いを深くし身をよじるような苦しみに苛(さいな)まれ、哀悼と鎮魂を繰り返してなお癒やされぬ己(おの)れに鞭(むち)打ち、復旧・復興へと歩を進めているというのが被災者の現実なのであろう。同胞の窮境に対して何という仕打ちか。県内施設では処理不能な瓦礫(がれき)が、県外自治体の受け入れ拒否に遭って行き所を失い堆(うずたか)く積み上げられ、復旧への重大な障害となっている。福島県では県内処理が原則とされている。酷(ひど)い話ではないか。

 瓦礫の受け入れを表明した神奈川県の黒岩祐治知事が県民の理解を得ようと開いた対話集会の模様をユーチューブでみた。受け入れを表明している宮古市や南三陸町の瓦礫の放射線量は、東京都が受け入れている瓦礫の線量より低く、政府が設定した基準値を超えるものではない、と知事の説得は条理を尽くしていた。しかし、会場は異様に剣呑(けんのん)な雰囲気に包まれ「嘘をいうな」「万一被害が起きたら責任はお前だぞ」といった怒声がとぎれとぎれに聞こえる。

 ≪過剰な安心求める小集団≫

 神奈川県民の抵抗がここに映し出されたほどに強いとは到底思えない。大半の人々は「日本人として瓦礫の受け入れは当然のことだ」と考えていよう。他方、不安に耐えられず安心を徹底的に追求しなければ心休まらない過剰心理の人間集団は、いずれの社会にも必ずや存在する。この心理を煽(あお)る政治集団もまたどこの社会にも棲息(せいそく)する。彼らは合理的な説明の全てを拒絶し、恰(あたか)もそれが正義であるかのように振る舞う。小集団ではあれ、いや小集団であればあるほどその声は一段と大きい。

 黒岩知事よ、知事の判断を支持する声なき県民が多数派であることを肝に銘じ信念を貫いてほしい。東京都に続いて静岡県島田市が市長の勇気ある判断によって受け入れ直前にまで事を進めている。日本人の同胞意識がいずれの国より強いことを私は信じる。首長が揺るがぬ判断を忍耐強く説き続けるならば、受け入れ拒否は「そんなエゴは度を超している」という地域住民の良心を誘い出し、事態は解決に向かうに違いない。たじろぐことのない首長の対応がポイントであろう。

 日本の国土は太平洋プレート、北米プレート、ユーラシアプレート、フィリピン海プレートの4つの巨大な岩板が組み合わさった、その真上に位置している。地下深くを対流するマントルに引っ張られて岩板が恒常的に動き、1つの岩板に他の岩板が潜り込んで形成される歪(ひず)みがある限度を超えると、一挙に復元力が働き大地震と津波を引き起こす。プレートテクトニクス理論によって立証されたこのリスクの大きな地表の上に、私ども日本人は住まっている。実際、日本の地表面積は世界の0・25%でありながら、マグニチュード6以上の大地震の20%が日本で発生しているという。

 ≪地震多発に欠かせぬ相互扶助≫

 東南海地震が東海地震と南海地震を誘発する連動型地震、首都圏直下地震が1世代、遅くとも2世代の間に起こることはほとんど不可避らしい。東海から南海にかけてマグニチュード8クラスの大地震が90~150年の周期で繰り返されてきたことは日本の歴史の真実である。日本に住まうということは、つまりはそういうことなのだ。ならば、私どもが今なすべきは、いつ起こってもおかしくはない災害に際して、血縁・地縁に連なる者をいかに守り、同胞の相互扶助の精神を涵養(かんよう)し、相互扶助の仕組みを再生するかである。

 地域エゴに固執する者は自己が災難に見舞われたときに他者の地域エゴの報いを受けざるをえまい。他者を助けずして自己のみが生存(ながら)えようというのが道理であろうはずはない。瓦礫の広域処理は同胞の相互扶助の精神の如何(いかん)を問う重大なテストケースである。

 安心とか不安というこの漠たる気分を赴くままにしているのであれば、日本という国土の上で生きていくことは難しい。安心はこれを追求すればするほど自己膨張を重ね、結局はそれが不可能事と知って出口のない閉塞(へいそく)感に人々を誘うであろう。不安はこれを払拭せんと計らえば、一段と大きな不安を呼び起こして私どもを無間地獄に落としかねない。強靱(きょうじん)なる諦観の哲学を提示する知者、出(い)でよ。(わたなべ としお)

3月5日付産経新聞朝刊「正論」