公益財団法人 国家基本問題研究所
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役員論文

2012.05.11 (金)

TPP 大国の責任を 櫻井よしこ

TPP 大国の責任を

 櫻井よしこ 

 

 3年ぶりの、また民主党政権下では初の日米首脳会談で、野田佳彦首相は環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)に関して、一日も早くルールづくりの交渉に参加すべきところを、決断できず後退した。日本の国力を高め、アジア太平洋諸国に大きく貢献できる枠組みが眼前で作られつつあるにも拘(かか)わらず、なぜ踏み込まないのか。この期に及んでの優柔不断はわが国の未来展望に影を落とす。

 過日、国家基本問題研究所(国基研)の代表団長としてベトナムの首都ハノイを訪れた。ベトナムのTPPに臨む姿勢、それへの中国の圧力などを取材し、微妙で複雑な情勢下で、日本が果たすべき役割について考えさせられた。

 国基研とベトナム外交学院及び社会科学院中国研究所等との意見交換の焦点は中国問題だった。歴戦の強者のはずのベトナムだが、南シナ海における中国の軍事力の強大化の前に、対中外交政策は極めて慎重だ。中国の軍事力に圧倒されがちな姿、また、南シナ海で起きたことは一定の時間差をおいて東シナ海でも起きてきたことを考えれば、ベトナムの抱える問題は日本にとって人ごとではない。

 中国はいわゆる9点破線で南シナ海の80%以上が自国領だと主張してやまないが、ベトナムは、南シナ海防御策については次のように、法と話し合いを強調する。

 (1)1982年の国連海洋法の遵守(じゅんしゅ)と話し合い(2)諸国との協調による海洋開発とベトナムの権益の確立(3)海軍力の強化と国民全員が参加する国民戦争の概念の徹底(4)テロや自然災害に関しての国際協力-の強化の4点を彼らは挙げた。

 ベトナム外交学院所長のホアン・アン・トゥアン氏は、ベトナムは平和貢献の国ならどの国とも協力する一方、どの国とも特別な関係は築かないとして、平和志向と全方位外交を、少なくとも表面上は、強調するのだ。

 短期間の観測であり、ベトナム側がどこまで胸襟を開いたかについては慎重な判断が必要だが、「ベトナムは弱い。国の規模も経済も中国よりはるかに小さい」「脅威に軍事力で対処しようとすれば、軍拡競争に陥る危険性もある」との発言もあった。一方で、「南シナ海の安全保障の危機がいま、顕在化して火山になっているわけではないが、中国次第でそのような事態が起きる可能性はあり得る」との発言も印象に残った。その場合の対処として、「国民全員が参加する国民戦争で国を守る」という方針を掲げている。

 すでにベトナムは南シナ海の島々に主として軍人とその家族を住まわせ、寺院、学校、診療所などを作って、実効支配中だ。「国民戦争」は中国の圧力に抗して断行されている。言葉では平和、全方位外交という国際社会では通用しない方針を掲げながらも、実際には中国の要求を退けるこの国の勁(つよ)さも見てとれる。

 ベトナムの対中政策の複雑さは、ベトナムと中国の圧倒的な力の差によって生まれている。ベトナムは、中国に約1300キロの国境で接し、トンキン湾には首都ハノイの正面に海南島がある。中国の北海艦隊の母港である青島軍港とともに中国の2大海軍基地が海南島だ。潜水艦発射ミサイルを搭載できる新型の「商」級あるいは「晋」級原子力潜水艦など、8隻を擁することのできる海底基地の島だ。

 国防予算は中国が1千億ドル台に乗ったとみられるのに対して、ベトナムは27億ドル、兵力は中国の228万人に対し48万人、主力艦船は149隻対14隻、潜水艦は71隻対2隻である。

 この軍事力の差の中で、「あらゆる面で中国の圧力を受けている」ベトナムが、早い段階からTPPへの参加を表明してきた。TPP参加は、ベトナムにとって当面、得るものよりも失うものの方が多いとも、彼らはいう。たとえば、かなりの水準まで民営化を達成することが求められるであろう国有企業や、既得権益を享受してきたベトナム共産党や一部の人々にとって失うものは大きく、体制側の力を弱める要素ともなる。

 だが、TPPによって腐敗の元凶ともなっている利権まみれの国営企業体質を変えることができれば、ベトナム経済は活性化する可能性がある。長期的には、TPPが一党独裁の政治体制に修正を加え、より民主的な国家運営を実現し、ベトナムが共産圏から自由主義圏に緩やかにシフトするきっかけになる可能性さえある。

 ハノイの米国関係者は、しかし、必ずしも右の見方に同意しない。世界貿易機関(WTO)に中国の加盟を許した2001年、米国は、中国が世界のルールに従うことで開かれた民主主義的な国になると期待したが、現実にはそうなっていない。中国は経済大国になったが、政治状況、たとえば人権問題は、以前よりずっと悪化しているからだ。

 一方、中国はベトナムのTPP参加を、米国への接近と見たのか、強く反対し、機会あるごとにベトナムに圧力をかけているという。ベトナムの日本への期待は、中国の圧力に日々直面し、複雑で微妙な国家運営を迫られるベトナムに、日本こそが支援してほしいということだ。支援は単に経済支援にとどまらず、企業や社会、ひいては国家統治に関する日本の叡智(えいち)を授けてほしいということだった。

 日本にはこうした状況を把握し、アジアの大国として貢献する責任がある。それは日本にとって一大好機なのだ。野田首相よ、アジアのためにも、日本のためにも、TPP参加を実現せよ。

5月10日付産経新聞朝刊「野田首相に申す」