闇に消える「尖閣衝突」法的処理 渡辺利夫
闇に消える「尖閣衝突」法的処理
拓殖大学総長・学長 渡辺利夫
国家主権侵犯への無関心は不道徳である。一昨年9月に尖閣諸島海域で発生した中国漁船衝突事件は日本人を驚愕(きょうがく)させた。だが、この事件の法的処理がどういう経緯をもって現在に至っているのか、この点についての関心を日本人は失ってしまったかにみえる。
≪主権問題での不誠実は重大≫
日本の領海内で海上保安庁の2隻の巡視船に体当たりした中国漁船の●其雄船長を、公務執行妨害罪で逮捕したのは当然であったが、あろうことか、那覇地検が同被疑者を処分保留のまま釈放してしまうという不可思議な事件であった。実は、首相官邸は那覇地検のこの対応をもって事件の幕引きを図ろうとしたのである。官房長官は問われれば、今でも「検察独自の判断を尊重する」と発言している。政権中枢部が主権問題についてかくも不誠実な姿勢に終始するのであれば、日中関係の将来に重大な禍根を残すことになろう。
船長釈放に至った理由として、那覇地検は「日中関係の将来について考慮するならばこれ以上船長を拘束して捜査を継続するのは相当ではない」旨の説明をした。まことに重大な虚言であった。検察官の職務は、送致されてきた犯罪事案について捜査を重ね、これを起訴するか不起訴処分とするかを決定することである。
刑事司法における検察官の権限は際立って強い。起訴権限は検察官が独占する(起訴独占主義)。他の何ものにも妨げられず法と証拠のみに依拠して任務を遂行させるための法的措置である。法と証拠のみをもってする捜査から「日中関係の将来への配慮」など生まれるはずもない。この配慮はまぎれもない「政治的判断」であり、検察の明白な越権行為である。
≪地検に屈辱的対応迫った官邸≫
ひょっとしてだが、那覇地検が「日中関係の将来に配慮して」とわざわざ前置きして船長釈放に至った経緯を述べたのは、「自分たちにはできもしないことをやらされているのだ」という、せめてもの抵抗のシグナルを国民に送りたかったからだという推察さえしたくもなる。法と証拠のみをもって起訴、不起訴を決定することが刑事司法のプロフェッショナルたる検察官の仕事であり、政治判断などできないことを一番よく知っているのが彼らだからである。
政治的判断がまったく排除されているわけではない。法務大臣には指揮権発動の権限があり、これをもって検察を指揮することは可能である。犯罪疑義が濃厚であっても、外交的配慮を優先させ指揮権によって船長を釈放するというのであれば、国民を深く失望させはしても法的な正当性は確保される。しかし、尖閣衝突事件で指揮権が発動されることはなかった。
中国からの執拗(しつよう)で強硬な船長釈放要求を受けて、官邸が那覇地検に屈辱的な対応を迫ったというのが真相なのであろう。実際、仙谷由人官房長官(当時)のブレーンとして内閣官房参与を務めていた評論家の松本健一氏は「釈放は政治的判断でなされた」と証言していたではなかったか。政権首脳部の姑息(こそく)な虚言により、尖閣衝突事件の法的処理は闇の中に消えてしまったかのように思われた。
しかし、この事件が闇に葬られることはなかった。日本政策研究センター代表の伊藤哲夫氏ら5人による那覇検察審査会への不服申し立てがあったからである。これを受けて検察審査会は昨年4月18日に、公務執行妨害罪などで船長を「起訴相当」として議決した。
地検側は「再捜査」の上で6月28日に改めて「不起訴」としたものの、検察審査会はこれに同意せず再度の起訴相当を7月21日に議決した。検察審査会が2度にわたり起訴相当を議決すれば「強制起訴」となることは、小沢一郎民主党元代表の事案と同様である。
≪中国漁船船長の召喚求めよ≫
この第2回の検察審査会の議決書においてとりわけ重要な指摘は、第1回の審査会の起訴相当を受けてなお「検察官は、海上保安庁への照会等はしているものの、被疑者に関する、中華人民共和国当局への情報提供申し出や捜査共助の申し入れを行っていないので、再捜査を尽くしたとは言えない」としているところであろう。政治判断であるがゆえに再捜査は尽くせるはずもない、と皮肉っているがごとくである。
今年に入って3月15日、ついに強制起訴がなされた。那覇地裁による指定弁護士赤嶺真也氏など2人が検察官役となって、被疑者●其雄船長を公務執行妨害罪で強制起訴し、那覇地裁で公判を開こうというところにまで司法手続きは進んだ。那覇地検は起訴状を被疑者に送るものの、船長はすでに帰国している。起訴状が2カ月以内に被疑者に送達されない場合には公訴棄却となる、というのが日本の刑事訴訟法の規定である。公訴棄却の期限が刻々と迫っている。
野田佳彦首相よ、尖閣漁船衝突事件の処理を日本の法理に基づいて厳正に進めよ。尖閣を含む南西諸島を無法の海域としてはならない。正当な法的手続きを経て強制起訴に至った事案である。まずは船長の召喚を中国に要求すべし。(わたなべ としお)
●=擔のつくり
5月11日付産経新聞朝刊「正論」