『報道されない沖縄』」が描く真実 櫻井よしこ
『報道されない沖縄』」が描く真実
櫻井よしこ
今年2月3日の「琉球新報」に、およそ誰もが驚く発言が掲載されていた。沖縄と本土の関係の理不尽と不条理の根深さを象徴するような沖縄経済界の重鎮の言葉だった。沖縄最大の建設会社、國場組元会長の國場幸一郎氏が「沖縄にとって中国は親戚で日本は友人。親戚関係をもっと深めたい」と語っていたのだ。
日本国民でありながら日本は友人にすぎず、中国は親戚、つまり「ヤマトンチュー」との血のつながりはないが、中国とは血がつながっているというわけだ。沖縄を取材すれば、ここまであからさまでなくとも、「國場発言」のような日本に対する根深い忌避感と中国に対する奇妙な親近感の存在を痛感することは少なくない。反対に、穏やかな親日本感情の存在にも気づかされ、祖国日本への沖縄の感情の複雑さを思い知らされる。
選りに選って日本に脅威を及ぼし続ける中国を身内とする倒錯感情を育むのに一役も二役も買っているのが、沖縄のメディアである。とりわけ現地の二大紙、「琉球新報」と「沖縄タイムス」の報道には大きな疑問を抱かざるを得ない。
最近のおかしな事例を見てみよう。
北朝鮮の金正恩政権は4月13日、人工衛星と称して弾道ミサイルを打ち上げた。結果は惨めな失敗だったが、自衛隊は国防の責務を果たすために防御態勢を敷いた。北朝鮮が発表した発射計画では弾道ミサイルは沖縄方向に飛ぶことになっていたために、万が一の迎撃の必要性に備えて自衛隊は地対空誘導弾(PAC3)を初めて沖縄県に運び込んだ。
これを「琉球新報」は4月5日の社説で非難した。
「ミサイル防衛の運用部隊など、自衛官約900人も沖縄入りし、きなくささが立ち込めている。PAC3を積んだ濃緑の大型自衛隊車両の列と観光客が乗るレンタカーが、道路を並走する光景を目にした県民の多くが、穏やかでない感情を抱いたことだろう」
何が脅威で何が敵
きなくささの原因は自衛隊のPAC3ではなく、北朝鮮のミサイル発射予告ゆえである。原因と結果を区別せずに社説子はさらにこう書いた。
「日米は、北朝鮮に影響力がある中国、ロシアと緊密な連携を取り、外交圧力を一層強め、発射を思いとどまらせるべきだ」
外交圧力で北朝鮮の軍事優先政策を転換させる努力は長年、続けられてきた。だが、中国とロシアはおよそいつも北朝鮮の側に立ってその蛮行をかばう。北朝鮮が韓国の哨戒艦天安を撃沈したときも、延坪島を砲撃したときも、中露が国連安全保障理事会における北朝鮮非難の決議を妨げ、骨抜きにした。
北朝鮮がここまで好き放題出来るのは、中露、とりわけ中国が陰に陽に支援を続けるからだ。従って、中露の協力を求めるのは大事だが、「琉球新報」社説子の主張する手法では北朝鮮を抑制することは出来ない。だからこそ、敵基地攻撃をしない日本にとって、なによりも必要なのは防御態勢を築くことだ。にも拘らず、社説子はこう苦言を呈した。
「軍事優先色が濃い対応は、沖縄社会にとってマイナス面が多いことを、防衛省は深く自覚してもらいたい」
一体何が脅威で何が敵だと心得ているのか。自衛隊は沖縄を守るべく出かけていったのだ。軍事的脅威から国民を守るのが自衛隊の責務で、そのためのPAC3だ。琉球新報はこうした物事の大前提を軽視して、専ら自衛隊に対する拒否感情を強調する。これでは読者の知的思考は妨げられ、世論は感情に流されがちになるだろう。自衛隊を派遣した政府の努力と自衛隊の働きを全く評価せず、自衛隊に対する徹底的な忌避の姿勢を貫くのはなにゆえか。
この問いを解くのに、産経新聞那覇支局長の宮本雅史氏の『報道されない沖縄』(角川学芸出版)がよいガイドとなってくれる。氏は、沖縄の複雑さを丁寧に取材し、沖縄がいまのように心理的に捻れに捻れてしまう前の姿から描いている。
戦後米軍の統治下で祖国復帰運動の先頭に立ったのは教職員会だったという。同会は日の丸を復帰運動のシンボルとして掲げ、祖国日本への熱い想いを子どもたちに教えた。徹頭徹尾反日的な現在の沖縄県教職員組合(沖教組)からは想像出来ない教職員の集まりが教職員会だった。
しかし、同会は本土に吹き荒れた安保闘争の延長線上で変質した。県外から続々と沖縄入りした反体制派の活動家、学者、マスコミが、教職員会の親日本路線を換骨奪胎していったのだ。宮本氏はそのプロセスを見事に描いている。
本当の地元の意見
祖国日本への熱い想いで団結していた教職員会が事実上乗っ取られて沖教組となり、沖教組は沖縄の本土復帰を経て日教組に加盟。以降、彼らは反米軍基地闘争や反日運動に走り、子どもたちには反日教育を徹底し始めた。復帰から40年、その間の反日教育の結果、沖縄は、「アメリカよりましだと思ったから日本に復帰した。(復帰するのは)中国でもよかった」「沖縄は常に被害者。大和(日本)がすべての責任をとるのは当たり前」と公言する教職員やメディアの人間を輩出するに至った。
政治闘争の場と化した沖縄でメディアの果たす役割は非常に大きい。宮本氏は沖縄のメディアの偏向を鋭く突き、決して全員の思いではない反基地闘争が恰も平均的沖縄の人々の思いであるかのように報じる沖縄メディアの手法を明らかにしてみせた。普天間問題についての恣意的な報道を分析したそのくだりは圧巻だ。
普天間飛行場の移転先とされた名護市についても、氏は綿密な取材を重ねている。名護市は反対派の稲嶺進氏が市長となり、辺野古への受け入れ拒否を表明しているが、肝心の辺野古の人々は実は多くが受け入れ賛成なのである。
地元のメディアはそのことをよく知っているはずだ。しかし、彼らの報道が反基地路線であるために、その路線に合わない意見は無視するのである。一方、全国紙の記者は、那覇や名護市の取材はしても、もう少し足をのばして、辺野古地区を訪れることは少ない。政府から派遣される官僚も政治家も多くは名護市止まりであろう。飛行場を受け入れてもよいという本当の地元の意見は、こうして無視されてきた。宮本氏の取材によって、これまで報じられてこなかった地元の中の地元の受け入れ賛成の声が存分に伝えられている。
それにしても氏が抉り出した沖縄経済に占める基地関係のおカネの実相は凄まじい。沖縄を腫れ物に触るように特別扱いし、国防の意味を説きもせず、すべてをカネで決着してきた年来の政治は、与える側にも与えられる側にも、沖縄問題に携わる人すべてに精神の卑しさを植えつけたと言える。この本を私は鳩山由紀夫元首相はじめとする政治家たちに、必ず読んでほしいと思うのである。
『週刊新潮』 2012年5月17日号
日本ルネッサンス 第509回