グローバル化の危険性に備えよ 平川祐弘
グローバル化の危険性に備えよ
比較文化史家、東京大学名誉教授・平川祐弘
不可避的に進行するグローバリゼーションに伴う危険について考えたい。グローバリゼーション、globalizationのglobeとは何か。敗戦直後、新宿に映画館地球座ができて私は何度も名画を見に行った。地球座とはロンドンに16世紀末年にできたグローブ座をまねた名で、シェイクスピアの芝居は400年前、そのGlobe Theatreで上演された。『真夏の夜の夢』の王様オベロンはパックに命令する。
≪地球が円いと知っていた家康≫
「いいか、鯨が一里泳ぐより先にここへ戻ってくるのだぞ」
妖精パックはすかさず答える。
「はい、ぼくは40分以内に地球をぐるりと一周してきます」
家康が関ケ原で天下を取った慶長5年は西暦1600年。英国に君臨していたエリザベス一世女王も、シェイクスピアも、地球座に来た観客も地球は円いと知っていた。ドレイク船長が1580年、帆船で世界を一周してきたからである。そんな新時代だったから、妖精パックもI’ll put a girdleround about the earth in forty minutesと答えたのである。
家康はマジェラン海峡を回って九州に着いたリーフデ号のパイロットを取り立ててアダムズに按針の名と三浦の領地を与えた。そんな家康は世界が円いと認識していた。だが、中国の明の万暦帝も、徳川幕府のアカデミーである昌平黌を開いた林羅山も「動く者は円に、静かなる者は方なり」と確信している。イエズス会士ハビアンが、地球図を示して、「地中を以て下となす。地上また天たり。地下また天たり。吾邦舟を以て大洋に運漕す。東極これ西、西極これ東。ここを以て地の円なるを知る」と説明するが、羅山は「この理不可なり。南北あらば何ぞ東西なからんや」と反論した。
それでも、18世紀初頭にもなると、シドチを訊問(じんもん)した新井白石は「地球は天円の中に居ること卵の黄身の白身の内にあるがごとき」ものと了解した。こうして天円地方の世界観は崩壊し、儒学そのものの信頼性も揺らぎだしたのである。
≪明治維新で中国から西洋に≫
交通通信手段の発達に伴い、グローバリゼーションという地球一元化が加速度的に進みだすと、日本人も漢文をやめ、英語を第一外国語にして西洋本位の近代産業世界に参入した。明治維新は比較文明史的に説明すると、わが国が文明モデルを中国から西洋へ転換したJapan’s turn to the Westということになる。
一神教を奉ずるキリスト教世界とイスラム教世界の間では、昔からイスラム軍がポワチエで戦ったり、キリスト教十字軍がエルサレムを奪回したり、トルコ軍がウィーンに迫ったりしたが、それでも地球上には複数の世界の住み分けがあった。ところが、大航海時代以後は西洋キリスト教文明が世界を植民地化しキリスト教化しようとした。西洋人の中にはそんな過去を肯定して自分たちは「白人の重荷」を背負って世界を文明開化したのだと自負する者も多いが、植民地化された側は反発する。
黄色人種の日本は白色人種のロシアと戦って1905年に勝利した。日露戦争は非西洋が西洋に反撃して成功した近代最初の例である。ただし、第二次大戦では失敗した。それに懲りて日本は平和主義を奉じているが、今後、地球上で発生する戦争や紛争は何と何との対立か。階級間の対立か、民族間の憎悪か、国家間の戦争か、文明間の紛争か、宗教間の熱狂か。
≪文化多元主義と宗教多元主義≫
要因はさまざまあろうが、今後百年間にニューヨークに核が、北京の地下鉄にサリンが、オリンピック競技場に細菌が仕掛けられる可能性は想定内とすべきである。ネズミには鼠捕りを作る知能はないが、人間には自滅する技術力がある。破壊技術力が抑止政治力を上回る現状では、少数テロ集団が取り締まりをかいくぐって行動に移る可能性はいよいよ高い。
科学の不可逆的進歩に伴うグローバリゼーションの結果、地球は狭くなる。人間の移動が容易になるにつれ、相互理解とともに紛争も増大する。異人種、異文化、異言語、異宗教の人が接するとともに衝突の機会も増えた。移民大国カナダやオーストラリアでは複数文化の共存を促進して文化多元主義を唱えだした。しかしグローバリゼーションは英語を世界語にする傾向にあり、英語を共通語にすれば英語文化の一方的な押し付けになる。世間は英語以外の外国語の学習をすでに怠っている。それだけでも非英語人には不満はたまる。
それに文化は起源的に宗教と一体で、文化多元主義を推し進めれば宗教多元主義になるはずだが、宗教心の強い人ほど他宗教を拒む。確信犯は中東の貧困層からだけでなく、先進国に住むことで疎外され自己の宗教や言語に心の拠り所を求める人からも出てくる。地球が大隕石の衝突など外的原因で破滅するのはやむを得ないが、人為的なテロや汚染で人類が損傷し絶滅するのはやりきれない。(ひらかわ すけひろ)
5月21日付産経新聞朝刊「正論」