公益財団法人 国家基本問題研究所
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役員論文

2012.09.22 (土)

「世界市民」がはまりやすい陥穽 平川祐弘

 

「世界市民」がはまりやすい陥穽

 比較文化史家、東京大学名誉教授・平川祐弘 

 日本国民であるより世界市民であれ、と鳩山由紀夫氏は唱えた。偏狭な国家主義を奉じるより世界公民の方がいい。国際的見地から自国を批判する人は大切だ。だが愛国より無国籍の方が恰好(かっこう)がいいという知的ファッションは困る。

 ≪石原氏と比較しての大江氏≫

 世界市民を名乗る人は多いが、その割にはその人に外国の友人は多くない。外に向かって外国語で自己主張はしないが、国内では良心派を自負する。そんなインターナショナリストの一人が大江健三郎氏の呼びかけに応じ護憲・反核デモに参加し、帰りしなに私に会って「平川先生の愛国主義に反対します」と言った。そんな抽象的平和論に私は具体論で応じる。

 「尖閣で中国船に体当たりされたビデオを流出させて職を辞した海上保安官は立派でした。尖閣は東京都が買う、と都知事がワシントンという場所を選んで発表したのは政治センスがありました」。相手は「石原慎太郎はファシストだ。都立の大学の仏文科を廃止した者を良しとするのですか」と声を荒らげた。私がフランス語教師だったことを知っていたからであろう。そこで別れたが、こんな大江、石原両氏の比較論を考えた。

 仏語教師の間の石原評は確かに悪かった。対する大江氏は仏文出身でもあり人気があった。学会に現れるやスター並みの歓迎で嬌声(きょうせい)が飛ぶ。ファンがサインを求める。大喝采の聴衆を味方に磯田光一の反論を強引にねじ伏せる。大江氏が西洋作家に言及すると、それに和して評論を書くことを名誉と心得た東大英文の同僚もいた。

 が、大江氏がダンテに言及しても『神曲』は平川訳がいいと言っても、私に言うことはない。ダンテ論で感心した日本の作家は正宗白鳥だけだ。初期を除き大江文学も感心しない。ある時期から読む気が起らない。文体がよくない。翻訳調の無機質な日本語は好きになれない。察するに実生活体験に乏しく観念で書くからだろう。

 ≪文学界の「土井たか子」か≫

 さらに好きでないのが政治的立ち回りだ。安保に反対、紅衛兵を支持、大学のバリケード闘争も支持、女子学生に自衛隊員には嫁に行くなと差別的檄(げき)も飛ばした。文学界のヒーローは、政界での土井たか子氏の並行現象だ。戦後平和主義のヒロインは護憲を唱え、北朝鮮の肩も持ち、衆院議長に上り詰めた。片や、サルトルばりの反体制を唱え(日本文壇では反体制が主流だった)頂点に上り詰めてノーベル文学賞も受賞したが、我が国の文化勲章は拒絶した。

 だが、土井氏と同じ運命を直(じき)にたどるだろう。シュリ=プリュドムは第1回のノーベル文学賞作家だが、そんな仏人作家がいたとは仏文関係の誰も知るまい。「昨日盛名今無声」とはこのことだ。

 愛国派と世界派の対立をロシアの場合と比べてみる。

 プーシキン(1799~1837)はナポレオンがロシアに侵攻した二百年前の精神状況を小説『ロスラーヴレフ』に記した。帝政ロシアの大貴族の家には仏人マドモアゼルが家庭教師として住み込んでいた。上流家庭の子女はフランス語が達者でフランス語の本しか読まない。そんなロシアの貴族令嬢が言った。

 「わたしたちは祖国の文物を蔑視して一向にかえりみない。それでロシア至上主義の三文文士が苦情をいうが、その歎きようはわたしたちがフランス舶来の婦人帽子ばかり買ってロシア製の帽子はかぶらない。それでロシアの女商人が愚痴をこぼすのとそっくりだ」

 国産粗悪品を買う必要はない。いい物は国籍を問わずいい。インテリは愛国心など旧弊だ、とせせら笑った。自分たちはスラブ軍国主義の野蛮の影は引きずらない。「ぼくたちは人類思想を追求する」「そうよ。わたしたちはロシア人であるより先に世界市民よ」

 ≪戦争で目覚めた露の媚仏派≫

 インテリゲンチアとはロシア語で、先進文明を理解し後進の自国民へ伝える知識層をさす。1812年、モスクワは近づく戦争の話でもちきりだ。しかし祖国愛は何か衒気(てらい)のようにみなされた。ロシアのインテリはフランス贔屓(ひいき)でナポレオンを褒めそやしロシア自衛軍の相続く敗戦を嘲けり笑った。

 プーシキンは言う。「不幸なことに、祖国を弁護する連中はいささか頭が単純だった。したがってそういう連中の正論は、相手のいい慰みものにされるのが関の山で、勢力といったらてんで無かった。彼らの愛国心とは、フランス語を社交界で使うことや外来語の輸入を咎(とが)めたり、舶来の品を売る高級商店街に対して威嚇的な振舞に及んだり、まあそういった類いのことに過ぎなかった」

 しかし不意に敵軍が自国領土へ侵入した。その報に世論は一変し、左翼の才子も愛国に目覚め、祖国防衛軍に志願し、戦死する者も出る。そんなプーシキンを愛読した廣瀬武夫は日露戦争前夜、軍艦上で彼の詩を漢詩に訳した。

 詩人ハ真詩人タルヲ要ス、

 管(かん)スルナカレ

 喧囂(けんごう)タル世間ノ評ニ、

 世評翻覆(ほんふく)ス雲マタ雨

 昨日ノ盛名イマ声ナシ

 (ひらかわ すけひろ)

9月21日付産経新聞朝刊「正論」