「文明の衝突」避ける古典の寛容 平川祐弘
「文明の衝突」避ける古典の寛容
比較文化史家、東京大学名誉教授・平川祐弘
■「文明の衝突」避ける古典の寛容
カトリック宣教師が来た桃山時代も、プロテスタント宣教師が来た明治以降も、西洋人の日本理解は、キリスト教的西洋優位の視点からなされた。戦後、北米の日本研究をリードしたライシャワーもノーマンも宣教師の息子だから、同傾向の価値判断を下した。
≪ダンテとボッカッチョの違い≫
わが国には新井白石のような日本本位の見方で西洋紀聞を綴(つづ)った人もいた。明治以降も徳富蘇峰などは西洋事情によく通じていた。だが後半生は英米本位の見方に反撥(はんぱつ)、国を過(あやま)る論説を書いた。日本は世界を敵にして戦う悲惨に陥ったからである。戦後は知識人は自信を喪失、外国産の見方で自国を裁断した。東大法学部の川島武宣はベネディクトの『菊と刀』を推奨し、日本の恥の文化は西洋キリスト教の罪の文化に劣るとした。
私たち昭和一桁の知識青年も外国に憧れ、西洋の価値観を我が物にしようとした。和魂洋才ではいけない、洋魂洋才になれと主張する大塚久雄のような学者がもてはやされた。その延長で今、一部の若者の理想は無国籍の世界市民であるらしい。インターネットの公用語として世界の英語化は進む。日本の大学では外国で尊ばれるものが尊ばれる。西暦2000年の『タイムズ文芸付録』はアンケートで「過去千年間の最高傑作は何か」を問うた。選ばれたのはダンテ『神曲』で、私はその訳者だから嬉(うれ)しくはあるが、しかし不安も覚えた。西洋名士が推奨する『神曲』ではイスラム教の開祖が分裂分派の徒として地獄で一刀両断の刑に処されているからである。
たがの外れた酒樽(さかだる)にしても、私が見た男ほど真っ二つに割れてはいなかった。彼は頤(おとがい)から屁をひるところまで裂けているのだ。脚の間に大腸がぶら下り、呑みこんだ食物を糞にする不潔な胃袋やはらわたも見えた。私が夢中になって彼を見つめていると、彼も私を見返し、両の手で胸の傷口を開いて叫んだ、「さあ、俺が俺の体をどうやって引き裂くか見ておけ! めった斬りにされたマホメットがどのようなざまか見ておけ!」
≪十字軍の正義か他との共存か≫
西洋製のこんな文学番付を重んずる人はダンテを褒め、ボッカッチョを下に置く。なるほど『デカメロン』には淑女に勧めかねる好色な場面はある。だが十字軍の正義を説くダンテより、ユダヤやイスラムとの平和共存を説く常識人ボッカッチョの方が私は好きだ。
商人階級出身のボッカッチョは『デカメロン』第一日第三話で、指輪を譲られた者が家督を相続することになる「三つの指輪」の話を語る。イスラム君主サラディンはユダヤ商人に「ユダヤ教、イスラム教、キリスト教のどれが真実の法か」と問う。商人はどれが真実と答えても迫害されると見てとってこんな譬話(たとえばなし)をした。しっかり者の金持ちがいた。三人の息子を等しく愛したが、誰を跡取りにしてよいか分からない。それで、せがまれてどの子にも「お前に指輪を譲る」と約束してしまった。
それで息子たちをみな喜ばせようと、ひそかに名工にそっくりの指輪を二つ作らせた。見事な出来映えで、拵(こしら)えさせた本人も区別がつかないほどである。死期が近づくと、父親は息子の一人一人に指輪を与えた。父の死後、自分こそが父の遺産相続人だと三人とも名乗り出た。互いに相手の言い分を斥(しりぞ)け「私は指輪をはめている、これが証拠だ」と言い張った。しかし三つの指輪がいかにも似たりよったりなので、どれが本物かわからない。それで裁判沙汰となり、訴訟騒ぎは今なお続いている。
≪『デカメロン』は人類の大傑作≫
--「陛下」とユダヤ商人は続けた。「先刻ご下問がありました父なる神から三つの民に授けられた三つの法についても同様にお答えしたく存じます。みな自分こそが父なる神の正当な相続人であると思っております。自分こそが真の法の所有者、自分こそが真の戒律を神から直接授かったものと思いこんでおります。しかし三者の誰が本当に授かったのか、それは指輪の場合と同様、いまだに解決されていないのでございます」
第二次大戦後の大変動は、西洋帝国支配の解体とイスラムの覚醒だ。なるほど、物質面での西洋化は地球の表に広まっている。すると、そのグローバル化の裏で偏狭なイスラム精神主義が増長する。しかし、ユダヤ、イスラム、キリスト教のどれか一つでもって世界を一元的に支配するなどできない相談だ。固有の信仰は大切にしたい。占領軍は日本の固有宗教を弱体化した。神道指令はわが国ではミッション左翼に歓迎され、戦後は神道は口にするのも憚(はばか)られた。
だが私は洋魂洋才主義者でないので、神棚にも仏壇にも手を合わせる。そんな私は西洋を尊ぶが、西洋キリスト教文明至上主義には与(くみ)しない。日本キリスト教の人々と同様、詩人ダンテの天才に敬服する私だが、内村鑑三、矢内原忠雄と違い作家ボッカッチョの寛容により多くの尊ぶべきものを感じている。人間性豊かな『デカメロン』は人類の大傑作だ。末永く読まれることは間違いないだろう。(ひらかわ すけひろ)
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