公益財団法人 国家基本問題研究所
https://jinf.jp/

役員論文

2011.06.28 (火)

日の丸を日の沈む象徴にするな 平川祐弘

日の丸を日の沈む象徴にするな

比較文化史家・東京大学名誉教授 平川祐弘

 小鳥でさへも巣は戀し、

 まして青空、わが國よ、

 うまれの里の波羅葦増雲(パライソウ)。

 19世紀南仏の詩人オーバネルは「青い空の私の故国は楽園だ」と歌った。その郷土賛歌を、上田敏は南蛮時代に伝わったキリシタンの語彙「波羅葦増雲」を借りて、異国趣味の日本語芸術作品に仕立てた。パライソウとはポルトガル語でパラダイスの意味だが、原詩「故国」は宗教的な天国賛歌ではない。天草に旅したとき、私は地方新聞にそんな説明をした。

 ≪在米の新渡戸、内村国恋うる≫

 その日本人にとっての故国の問題だが、明治初年にキリスト教に改宗した新渡戸稲造や内村鑑三は米国へ渡って、祖国を恋しく思った。日本が異教の国として米国で野蛮視されればされるほど、釈明したい気持ちはつのったに相違ない。新渡戸は英文で『武士道』を著し日本人の倫理性を強調した。内村は宣教師の無知と偏見に憤慨し、無教会主義を唱え、西洋人宣教師の傘下を離れた。だが西洋に反発した彼らの日本人としての自己主張には力みが強過ぎる。

 米国で排日移民法が成立するや内村は徳富蘇峰と手を握り、「米国に有るものは金である。金を除いて米国に有るものは殆(ほとん)ど無い。かつて有りし高貴なる精神は今は消えて殆ど跡なしである。文明国として米国マイナス金はゼロである」と、幼稚な反米主義を繰り返した。しかし新渡戸や内村が、外国にさらされた日本人として、祖国を愛したことは間違いない。

 だが、昨今は日本人が日本を必ずしも肯定的にとらえない。日本国民であるより世界市民であれ、と鳩山由紀夫前首相は主張した。自国を批判する人がいることは大切だ。しかし日本の悪口を言う方が恰好(かっこう)がいいという知的ファッションに乗っただけの人もいる。世間には親が嫌いな子供もいるようなものだ。確かに親に楯突くことで子は育つ。そんな反抗期の子に親孝行を説いても無駄だろう。だが気がついてみると、孝行しようと思うときには親は亡い。

 ≪反国旗・反国歌の奇妙な論理≫

 民主党の指導者には国家観が欠落しているといわれるが、彼らが学生運動をしていた1960年代は国家を否定することが恰好がいい時代だった。菅直人首相の世代にとって日の丸掲揚などどうでもよかった。現に菅氏は君が代の歌詞に文句をつけている。造反児に似て、国家が嫌いな子供も大人も、また大人子供というべき教師もインテリもいる。なにしろ、この国には外国語で外国人と対決したことのない国内向けの国際主義者が多数いる。大新聞や大書店も反国家を売り物にしている。

 ミッション左翼の学校も反天皇・反国家で、建国記念を祝わぬようにと2月11日を試験日にしたりする。だが、そんな学校を出た人が、国のためになにかしようと思うときには国は亡い、では取り返しがつくまい。左翼系の閣僚も世間の目を気にして国旗に一礼して記者会見に臨む昨今だが、気がついてみると、かつて rising sunと海外で呼ばれた日の丸は、民主党政権下で日の出よりも日の沈む setting sun の象徴になりつつある。

 こんなままでよいのか。反国旗・反国歌主義の人に聞きたい。西洋のキリスト教学校で自国の国旗掲揚や国歌斉唱に反対の学校はあるのか。母国が恋しいのは人間性の自然、自分の母が好きと同じだろう。信者が天国に憧れるのも同じだろう。それをよもや偏愛とは言うまい。敏の訳詩が故国賛歌とも天国賛歌とも読めることは両者に大差がないことを示唆している。日本軍が掲げた旗の下で残虐行為が行われたと主張する人は、十字軍の旗の下でも赤軍の旗の下でも、さらに多くの人が虐殺されたことを想起すべきだろう。

 ≪素直に国愛する子供育てたい≫

 しかし一部の先生たちは、国歌斉唱の際、起立を命じた校長の職務命令を最高裁が合憲と判断したことに不満顔だ。特定の国を他国より愛するのは平等の精神に反する、それで愛国に反対だという。それを聞いた私は「それでは特定の女を妻としてほかの女よりも愛するのは平等の精神に反しないのですか?」と、ミッション系の大学の講演の席で言ってしまった。聴衆が爆笑したこともあって、その場では誰も私に反論しない。しかし後で「誰だ! あの良心の自由に理解のない平川を講演会に呼んだのは!」とぶつぶつ言ったそうである。

 自分の親や先生を素直に愛することのできる子供は幸せだ。素直に国を愛する子供を育てたい。公平に自国を愛する自敬の人こそ隣人や隣国をも大切にする人だからだ。日本の多くの国立大学は日の丸を掲揚しない。反対者がいるからだ。東京外国語大学の学園祭では、大学で教える26外国語の国の国旗を掲げる。それに伍(ご)して日章旗がやっと掲げられたのは、外国人のための日本語学科が開設されたつい先年からである。それまでは左翼の「良心的」教授が大学院生をけしかけて日の丸の旗を降ろさせたのだと学長が苦笑した。(ひらかわ すけひろ)

6月27日付産経新聞朝刊「正論」