公益財団法人 国家基本問題研究所
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役員論文

2011.08.02 (火)

震災下の8・15 渡辺利夫

震災下の8・15

拓殖大学学長・渡辺利夫  

 ■66年間の「疑似平和」を悔悛せよ

 自分の立っている地盤がぐらりと揺れたように感じられたのは、平成7年のことであった。この年の1月に阪神淡路大震災、3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった。前者では、首相官邸や自治体の初動の後れによって救済できたはずの生命の多くが虚空に消えた。後者では、稀(まれ)にみるこの無差別テロに対して破壊活動防止法の適用さえ見送られ、組織暴力への断固たる構えをみせることができなかった。

 ≪拠って立つ所揺れ続けた20年≫

 北朝鮮が日本人拉致を公然と認めたのは平成14年の日朝首脳会談においてであった。それからもう10年近くが経(た)つ。日本政府による拉致被害認定者は17人だが、同僚の荒木和博教授を代表とする特定失踪者問題調査会によれば、拉致の可能性のある失踪者の数は470人に上るという。拉致問題など現在の民主党指導部にあってはまるで「絵空事」のようである。犯罪国家による自国民拉致という辱めをこうまで受け、それでも何ごともなかったかのように振る舞っていていいのか。

 昨年の9月には尖閣諸島の周辺海域で中国漁船衝突事件が起こり漁船を拿捕(だほ)。しかし何に怯(おび)えたのか、船員と船舶は即座に手放し、船長のみは逮捕したものの、結局は処分保留のまま釈放となった。この不作為を察知されて中国に謝罪と賠償を要求されるという顛末(てんまつ)であった。屈辱を屈辱ともしない、遊惰(ゆうだ)の外交である。日本は領海を侵犯されてもせいぜい遺憾の言葉を発するだけの国だと見透かされてしまったのである。尖閣の命運尽きる日がいずれやってくると覚悟しなければなるまい。

 ≪憤怒にも似た災民感情の兆し≫

 そして今年3月11日、あの東日本大震災である。自衛隊、消防、警察、海保、医療関係者の献身的な救援活動に感動を覚えなかった者は少なかろう。米軍の救済活動がこれに加わる。日常の訓練に怠りなく有事に際してはどう立ち居振る舞うべきかを知悉(ちしつ)する各組織の自主的行動は水際だっていた。逆に政府の司令塔はといえば、発生した事態を正確には捉えきれず、機能分担や指令系統の不鮮明な組織を乱立させて救援活動の効率的展開の足を引っ張ってしまった。遅ればせながら復興構想会議が案を出したものの、構想を実現するための予算や法的根拠はなお曖昧なままに放置されている。

 7月上旬、宮城県石巻市で救援ボランティアに精出す学生を激励するために同地を訪れたのだが、現状は無残の一語に尽きる。非人間的な避難生活を強いられている人々が被災地域全体でまだ9万人を上回るという。酷薄な運命に貶(おとし)められながら秩序と規律を守って再生努力に営々の力を注いできた人々である。しかし、震災後4カ月以上経って彼らの疲労は極に達し、絶望感が漂い始めている。憤怒にも似た感情が急速に湧き起こるのではないかという予感をもって帰京した。

 ≪身捨つるほどの祖国はありや≫

 国民の生命と財産を守護し、領土、領海、領空を守備するのは、国家が国家たるための最低限の条件である。日本という国家は本当に信頼できるか。国家に託してみずからの生命と財産が守られるか。多くの被災民の間に国家不信がはっきりとした形を取り始めたようにみえる。

  

 マッチ擦るつかのまの海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや

                         寺山修司

 

 東日本大震災で呻吟(しんぎん)しながら日本は66回目の終戦記念日を迎える。この辺りで「敗戦記念日」と言い換えたらどうか。東日本大震災という「第2の敗戦」の真っただ中である。うずたかく積まれた瓦礫(がれき)の山々に囲まれながら、66年前の悲劇にどう思いを馳(は)せよというのか。

 民主党という、有事をまるで想定することのない執権党の下で日本は「第2の敗戦」を迎えた。一国民として慚愧(ざんき)に耐えない。だが、国びとよ! ここで立ち止まって深く思慮しようではないか。いかに異様ではあれ、民主党は日本人が養い育てた象徴的な人間集団ではないのか。米国という覇権国家に身を委ねて得た「疑似平和」の中で、日本人は国家主権や有事といった面倒な問題に眼を向けず、エゴイスティックな利益を追求して事無きを得てきた。

 そうこうしているうちに「国家なき市民社会」だの「国家主権の相対化」などという物言いの政治勢力が現れても、これに特段の違和感をもつことはなかった。そうした安逸な気分の中で民主党という政治集団に、あろうことか圧倒的な支持をまで与えてしまったのが、平成21年秋の衆院選であった。安逸を貪(むさぼ)ってきた国民の油断である。「震災下の8・15」を私どもは66年間の「疑似平和」を悔悛(かいしゅん)する日として迎えねばならない。そうでなければ、日本再生の機会は永遠にやってこないではないか。(わたなべ としお)
8月1日付産経新聞朝刊「正論」