中国に引き込まれるか、再選の馬総統 櫻井よしこ
中国に引き込まれるか、再選の馬総統
櫻井よしこ
1月14日、諸国の先頭を切って台湾の総統選挙及び立法院選挙が行われた。与党国民党の馬英九氏が再選を果たしたが、得票数は4年前の総統選挙での756万票より67万票少ない689万票にとどまった。国民党が立法院で得た議席は113議席中64。法案成立に必要な過半数は押さえたが、憲法改正も可能とする全議席の4分の3に肉薄した前回より、大幅な議席減となった。
他方、野党の民主進歩党(民進党)は初の女性総統候補、蔡英文氏を担いで前回を65万票上回る609万票を得た。立法院の議席は現有の32から40へと善戦したが、国民党には及ばなかった。
台北の町で聞いた人々の声は、馬氏再選で中国との関係が悪化する心配は、民進党の蔡氏が当選した場合より少なく、他方、馬氏も国民党も前回より大幅に支持を減らしたために、「好き勝手」は出来ない、民進党によるチェック機能が高まると見る人々が目立った。
争点は専ら経済だったが、果たして現在の台湾にとってそれでよいのか。外交は中国との関係維持という角度で取り上げられた。台湾海峡の向こう岸には、中国が台湾に照準を合わせた1400基以上のミサイルが据えられており、核も搭載出来る。だが、こうした軍事的緊張の実態や安全保障の脅威は殆ど論じられずに、対中経済交流の維持・発展を、2人の候補はどこまで実現出来るのかなどという論点が主だった。
中国の最も厳しい軍事的脅威の標的となっている台湾で、安保問題が論じられない選挙戦は真の意味で異常である。台北駐日経済文化代表処元代表の許世楷氏は、台湾人は軍事的真空意識の中に在ると語る。
「海峡対岸のミサイルは台湾人皆が知っています。けれど、そのことを考えて暮らすのは心理的に非常な負担です。忘れてはいないけれど、多くの台湾人は正常な生活を営むために考えないようにしているのかもしれません」
「公正ではなかった」
台湾の中央研究院、社会学研究所の所長蕭新煌(シャオシンホァン)氏は、今回の選挙で国民党が勝利した理由のひとつが、この恐怖ファクターだと指摘する。中国からの離反には軍事的脅威の代償が伴うと恐れさせて投票に影響を与える意味で、台湾の総統選挙の隠れた主役は実は中国なのである。
96年に李登輝氏が台湾で初めての自由な民主主義的選挙で総統に立候補したとき以来、中国は露骨な介入を実施してきた。その手法は武力による威嚇から、経済に絡めた利益誘導と、非協力者への恫喝の組み合わせへと、大きく変化して今日に至る。私の台湾総統選挙の取材は今回で4回目だが、中国の介入の形が変わる中で、介入の度合いは年々、高まっていることを実感する。
台湾の民主主義を守るために、今回、日米欧の有志が構成する「台湾公正選挙国際委員会」(ICFET)が組織され、私もその一員として選挙を見詰めた。
ICFETの結論は、今回の選挙は「開かれてはいたが、公正ではなかった」というものだ。
何が公正で何が不公正かは見えない部分が多い。しかし、目に見えない不公正の典型が、誰も語ろうとしない中国の軍事力への恐怖である一方、目に見える不公正の典型が、中国政府の働きかけによると断言してよい大量の投票が行われたことだ。中国に立地する台湾企業の経営者らが一斉に社員に帰国し投票するように勧め、休暇に加えて旅費を支給したのだ。当初、旅費の5割が補填されるといわれたが、重慶など幾つかの市の台湾人社員には全額が支給されたという。結果、他の地域の労働者が残り5 割分を請求するなどといった動きが相次いだ。
このような方法で少なくとも20万人が帰国し、投票したと推測される。実際彼らがどの党に投票したかはわからない。しかし、事前に国民党の馬氏を支持するよう勧められていたであろうことは想像に難くない。中国に進出した台湾企業と中国当局の結びつきの強さを考えると、この投票斡旋行動の背景に中国共産党の意向が強く働いていたと見るべきであり、外国政府のこのような形での介入は、選挙の公正性に疑問を突きつけるものだ。
蕭氏は右の例を含む資金ファクターも馬氏の当選を後押ししたと分析する。氏が強調するのは国民党の資金の信じ難い潤沢さだ。蕭氏が語る。
「国民党は世界で恐らく最も金持ちの政党です。資産の全容は正確には把握出来ていませんが、台湾経済の特徴は数多くの政府関連企業、なかんずく、国民党関連企業が大きな役割を果たし、国家経済の重要な部分を占めていることです。台湾は党と国家を切り離せない合体国家だと言わなければなりません」
やがて中国の支配下に
普通の国では政党イコール国家ではない。だが、台湾は事実上、国民党が国家になっているというのだ。国民党の資産は不動産、株、債券など多様な形で保持されているが、株取引によって得る利益だけでも、控え目に見ても年に1億米ドル(約80億円)に上ると蕭氏は指摘する。この潤沢な資金で国民党は全国の支部を維持し、資金も仕事もそこを介して配られるというのだ。
シンクタンク「新台灣國策智庫」がまとめた「未完の民主化--台湾の選挙における不公正と異常について」の報告書には、国民党の証券取引による利益に関して、もっと大きな数値が記載されている。
これは08年3月に「エコノミスト・デイリー」紙の編集長らが発表した国民党の資金の特別調査報告書の中の数字だという。それによると、 2000年から07年の8年間に、国民党が売却した証券の総額は113億米ドル(約9040億円)、利益は11億米ドル(約880億円)だったという。
同報告書には、日本の敗戦後、大陸で中国共産党と戦った当時、蒋介石は国民党の資産の多くを戦費に使い、台湾に逃れてきたときには財政は疲弊しており、国民党の財政委員会の記録には8億米ドル(約640億円)もの資金不足が記録されていたという興味深い記述もある。
国民党の財政は台湾に逃れてきてから目覚ましく回復した。これは実は日本の個人、企業、そして政府が残していった資産の多くを国民党が所有するに至ったからだとも説明されている。
国民党の資産形成は如何にして可能だったのか。果たしてそれは公正な方法によるのか。中国の軍事的脅威にどのような戦略で対処するのか。こうした大事な問題から目を逸らし、目の前の経済だけを論じていては、台湾は軍事力への恐怖と中国依存の経済によって、やがて中国の支配下に引き込まれてしまう。心底、心配になった今回の選挙結果だった。
『週刊新潮』 2012年1月26日号
日本ルネッサンス 第494回