公益財団法人 国家基本問題研究所
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役員論文

2012.01.28 (土)

ゲーテが三大詩人から落ちた訳 平川祐弘

 

ゲーテが三大詩人から落ちた訳

 比較文化史家、東京大学名誉教授・平川祐弘 

 三国同盟を結んだ枢軸国の人道に対する罪の問題と、独日伊の文学史的地位の敗戦後の変動について、私見を述べたい。

 私は学校時代を敗戦前後に過ごしたが、当時は第一外国語は英語で、高校から習う第二外国語はドイツ語だった。ドイツ語の威信は明治以来、旧制高等学校や帝国大学で非常に高く、ドイツ語は教養のため、英語は商業のためと思われていた。ドイツにはゲーテ、カント、ベートーベン、マルクスなどがいたからでもあったろう。

 ≪贖罪でドイツ文化に自信失う≫

 昭和23年、旧制高校に入ったときは、私も当然、ドイツ語を選んだ。それでも、大学に進学してからはフランス語を中心に学んだので、昭和20年代の末、フランス政府の奨学金で留学することを得た。戦勝国アメリカへ渡った当時の日本人が肩身の狭い思いをしたのに比べて、日本と同じく敗戦国だったドイツやイタリアや、形式的には戦勝国だが実質的には敗戦国だったフランスで長く遍歴時代を送った私は、歴史に対する見方がいつしか世間一般とずれてしまった。おかげでオリジナルな見方も出せるといえば出せるのだが、そんな一例を示したい。

 世界の三大詩人はダンテ、シェイクスピア、ゲーテと、以前は相場が決まっていた。ところが、この文学史番付が近年変わってゲーテの名が落ちてしまった。なぜか。ゲーテが優れていないからではない。ドイツ人は、ユダヤ人虐殺という人道に対する罪を自国人が犯したがために意識の根底から動揺し、かつて誇りとしていた自国の人文主義文化に対する自信を喪失、過去の大作家をも尊重しなくなってしまったからである。

 彼ら自身が尊敬しなくなったからには外国人が尊敬するはずはない。日本でも秀才は独文科へ進学しなくなった。それやこれやでわが国の高等教育を風靡(ふうび)したドイツ語は、平成の日本では見るかげもない。若き日にゲーテの『詩と真実』を自分の青春と重ね、『ファウスト』を習うことで人間の自律性を尊び、『イタリア紀行』を読むことでアルプス以南の地に憧れた私としては淋(さび)しいかぎりだ。

 ≪鴎外、漱石が尊重される日本≫

 複数の外国語に堪能な旧制高校出身の土居健郎博士と、このことでお話ししたことがある。同じく敗戦国民といっても日本人は幸福だ、と精神医学者の立場から意見を述べられた。ゲーテすらも重んじなくなったドイツと違って、わが国では鴎外や漱石は尊重されている。

 人間は自国の近代古典を読むことで文化的アイデンティティーを保ち得、それによって精神の安定も保ち得る。鴎外や漱石を読まない人でも、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読むことで明治日本の国造りを肯定し、自国の過去をポジティブに評価することで日本人としての自信を持ち得る。すくなくともニヒリスティックな反日文化人になることはない。

 それが日本の場合だとするならば、同じく枢軸国であり、敗戦国でもあったイタリアの場合はどうか。

 イタリアには根源的な自信喪失などは見られない。なるほど、かつては少年の必読書であった『クオレ』は、戦後は遠ざけられた。その過剰な愛国心鼓吹が嫌われたのである。だが、それ以外に変化は見られない。イタリア文学は国内ではもとより海外でもダンテ、ボッカッチョをはじめもてはやされている。いま東京大学で第二外国語で志望者数が増えている西洋語は、イタリア語なのだそうである。

 ≪変わらずもてるイタリア文学≫

 そこで私は考える。独日伊の三国を同等に悪と見なしたことがそもそも間違いではなかったか。イタリアも日本と同様、ナチス・ドイツと同盟を結んだことが悪の烙印を押された最大の理由ではなかったか。ユダヤ人殲滅(せんめつ)という人道に対する罪を犯した意識はイタリアの通常の人には少なかった(ナチスに協力しユダヤ人殲滅に手を貸した人はムソリーニのイタリアにもいたが、そのような少数者はペタンのフランスにもいたのである)。

 大観すれば、イタリアも日本も通常の国として普通の戦争を戦ったまでなのである。当時の国際法で戦争は犯罪ではなかった。それだから罪の意識は希薄なのだ。20世紀の世界で、独裁者が暴虐を振るい、桁違いの多数の人を殺したという点では、強制収容所のドイツのヒトラーと比肩さるべきはイタリアのムソリーニではなく、ラーゲリのロシアのスターリンと、「労働改造」の中国の毛沢東なのである。

 第二次大戦前後で世界文学史の番付で最大の変動は、戦前はダンテ、シェイクスピア、ゲーテの三巨頭であったのが戦後はゲーテの名が脱落したことだが、それと同様、20世紀の世界政治の三大悪人はヒトラー、ムソリーニ、東条ではなくて、別の巨頭の番付ができてしかるべき時期が来ているように思われる。東条英機は愚かだったかもしれないが、そんな悪の大物ではなかったからである。(ひらかわ すけひろ)
1月27日付産経新聞朝刊「正論」