公益財団法人 国家基本問題研究所
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役員論文

2012.02.09 (木)

日台を結ぶ武士(さむらい)の絆 櫻井よしこ

日台関係の緊密さは人間同士の親和性から生まれている、そう実感させたのが1月14日の台湾総統選挙の取材でお会いした白井真由美さんだった。台湾出身の彼女は数奇な人生を歩んで日本人となり、現在は日系米国人と結婚、カリフォルニアで小さなテレビ局を運営している。

白井さん一家の物語は古きよき日本人と台湾人の物語だ。それは「立派な日本人として生きたい」と自身を鍛錬した父の物語から始まる。

父の生年を尋ねると、「大正10年」と即答した白井さんは1947年生まれ、台湾名は林慧珍である。
「父は日本統治下の台北州宜蘭(ぎらん)郡生まれです。宜蘭庁長は西郷隆盛の子息、菊次郎さんでした。そのせいで、父は自分のことを『おいどん』と呼ぶ『九州男児』でした」

菊次郎は西郷が奄美大島に遠島にされた折、名門龍家の娘、愛加那(あいがな)との間に生まれた。西南戦争では一兵卒として戦い、右足を失った。

『西郷菊次郎と台湾』(南日本新聞開発センター)を著した佐野幸夫氏は、菊次郎の足跡を13歳で留学した米国、西南戦争後に入省した外務省、台湾宜蘭庁長、京都市長と辿り、菊次郎が父の「敬天愛人」を実践したことを丁寧に描写している。同書の序で、台北駐日経済文化代表処元代表の羅福全氏が、「宜蘭の近代化建設の基礎を確立した」菊次郎を台湾人が追慕して建てた記念碑「西郷庁憲徳政碑」を紹介している。

菊次郎の宜蘭赴任は明治30(1897)年から明治35(1902)年末まで、白井さんの父林栄鋒(リンエイホウ)氏が生まれた大正10(1921)年のかなり前だ。だが、林氏が自らを「おいどん」と呼んで親愛の情を示す程、菊次郎に代表される日本の台湾統治は台湾人を大切にした。

国民党軍の横行に愕然

立派な日本人でありたいと欲した林氏の教育は厳しく、妻や娘の家事にも規律を求めたという。
「たとえば洗濯物は男物と女物は一緒に干してはならない、男は寡黙で責任感が強くあれ、女は礼節を守り愛情深く他者への配慮を心がけよと言われました」と、白井さん。

林氏は昭和13年、17歳で日本軍に志願した。台湾語、日本語、中国語が達者なため、軍の通訳となり、貧しかった一家を支えた。入隊後すぐに、日本軍が占領した南京に派遣された。このとき氏は頭部に傷を負い、治療のため大阪に送還された。その後台湾に戻った氏は高雄の台湾製糖に入社し、日本人技師、天野温四(あつし)氏と運命的な出会いを果たす。

天野氏は明治42年、兵庫高校を卒業後、台湾に渡った進取の気性に富んだ人だ。当時、台湾の産業は製糖と米作が主で、日本人がすでに幾つか小さな製糖所を作っていた。氏はそのひとつで技師として働き、やがて製糖の機械を作る台湾鉄鋼所の工場長、さらに常務取締役となる。昭和16年に日米開戦、日本はフィリピンに進出し、マッカーサー撤退後の各工場を管理運営するために天野氏は軍命で昭和17年、マニラ入りした。

その工場で24歳の林氏と、後に林夫人となる李蘭玉さん20歳が働きだしたのが、昭和19年4月だった。
「でもその年の12月27日には軍から非戦闘員に疎開命令が出て、台湾鉄鋼所の、今風にいえばOLだった私たち女性5人が一足先に疎開したのです」と蘭玉さん。天野氏ら男性陣は米軍と戦うために残ったが、彼らもひと月余り後に山中に逃げた。両者は合流し終戦後の9月まで、北部ルソン方面の山中を逃げ続けた。

昼間は身を隠し、移動は夜間、食糧は山芋とその葉っぱとトカゲだった。逃避行の間、林氏は50歳を過ぎた天野氏に負担をかけないよう2人分の荷物を背負い天野氏を守り続けた。あるとき、天野氏が言った。
「林君、君は戦死した僕の一人息子のようだ。生還できるかわからないが、縁があったら親子になろう」

9月、一行は投降した。DDTを振りかけられ、男女別々に収容所に入れられ、消息は互いに知ることもなかった。林氏と蘭玉さんは、台湾人帰国のための船が博多から出るのを知って乗船した際に再会し、やがて結婚する。

台湾に戻った林氏は、蒋介石の国民党軍の横行に愕然とした。

故伊藤潔氏の『台湾 四百年の歴史と展望』(中公新書)によると、1947年2月末までに国民党が接収した日本の資産は土地を除けば、①公的機関593件、29億3850万円、②民営企業1295件、71億6360万円、③民間私有財産4万8968件、8億8880万円、計5万856件、109億9090万円に上る。実に膨大な資産である。

「みな武士」

国民党は台湾を占領し日本の資産を接収すると、台湾と日本の関係を断ち、台湾人を弾圧し搾取した。こうして47年2月27日、煙草売りの未亡人が銃で頭部を殴打され所持金を取り上げられた事件をきっかけに2・28事件が起きた。国民党の発表でも2万8000人が殺害された大殺戮だったが、国民党はこのとき、台湾社会の知識人や指導者の名簿を作成し、皆殺しを図ったといわれる。リーダー層を消し去りその民族の力を殺ぐのは、同じ漢民族の中華人民共和国がチベット、ウイグル、モンゴルの各民族に使った手法でもある。

林氏は台南に移り、4人の子供を育てようとした。しかし、日本を愛する氏は国民党政権下で警察の監視対象となった。白井さんが語る。
「台湾ではもう暮らしていけないと考えたとき、父は天野さんとの約束を思い出したのです。で、行方も知れない天野さんについて、婦人倶楽部の尋ね人欄に投稿しました。すると、判ったのです、居所が!」

林氏は天野氏に一家で養子にしてほしいと便りを書いた。天野氏はすぐに応えた。「一晩で4人も孫ができてこんなうれしいことはない」

一家はとるものもとりあえず、来日した。65年のことだ。船で神戸に着くと、税関の担当者に言われた。
「養子で来たのに観光ビザでは入国できません」
「日本の法律に背いて入国するつもりはありません。このまま戻って出直してきます」と林氏。

しかし戻れば、国民党政権が一家の脱出を容認するとは思えなかった。そのとき、税関の局長が、待っていなさいと言った。局長は即上京し、法務大臣石井光次郎に掛け合った。一部始終を聞いた石井は即断した。
「特別許可でいいじゃないか」

こうして林家の6人は一家挙げて天野家の養子となり、日本人となった。白井さんがしみじみと語る。
「天野のおじいちゃんも武士(さむらい)、税関の局長さんも石井法務大臣もみな武士。私の父も武士になろうとした」

林家の人々は全員天野姓となり、雅智と改名した栄鋒氏は96年に亡くなり、養父の分骨と共に岡山県東山墓地に眠る。日本名静江となった夫人はいまも岡山県に健在である。

『週刊新潮』 2012年2月9日号
日本ルネッサンス 第496回