「村に帰ろう」と村長が呼びかけた福島県川内村、いわなの里を訪れて 櫻井よしこ
「村に帰ろう」と村長が呼びかけた福島県川内村、いわなの里を訪れて
櫻井よしこ
「村に帰ろう」と全村民に呼びかけた福島県川内村の遠藤雄幸村長にお会いしてきた。3月20日の春分の日、郡山駅で待ち合わせると、駅正面の放射線量を示す掲示板には毎時0.423マイクロシーベルトと表示されていた。これは年間3.7ミリシーベルトに相当する。
日本人は自然界から年平均1.4ミリシーベルトの放射線を浴びているが、世界には自然放射線量が年平均10ミリシーベルトを超える所も少なくない。国際放射線防護委員会(ICRP)は、原発事故など不測の事態から平常に戻る過程における許容放射線量を年間20ミリシーベルトから1ミリシーベルトの間と定めている。郡山駅前の放射線量は、十分この範疇に入る。
「この数字、覚えておいてくださいね」と、遠藤村長が言った。
車でしばらく走り、いまだ雪化粧の残るあだたら連峰を左に見ながら常磐道に入った。今年は川内村も雪が多く、通常は積雪10センチメートルほどだが40センチメートルも積もったそうだ。だが、さまざまな意味で厳しい冬が過ぎた今、春が四方八方から語りかけていた。木々は今にも萌え出すかのように準備を整えていて、俳句や短歌の季語そのもののように、山々が笑っていた。
峠を越えて川内村に入った。もともとの人口は3000人、面積2万ヘクタールの9割が山林で、その多くがきちんと間伐されていた。手入れされた山林は見るからに美しい。もうひと月もすれば山菜やキノコが勢いよく育ち、さぞかしにぎやかな山になるだろう。だが、この豊かな山に入るには放射線量の厳しいチェックが必要なのが現実だ。
深い森と山は冷たく美味な水も生み出してきた。村人は井戸を掘って、山の恵みの清澄な水で暮らしてきたが、水はどんな影響を受けたのだろうか。
「水質検査はもう何回もしました。放射能は全く検出されていません」
遠藤村長はさらに言った。
「セシウムが森にも落ちたのは確かです。木々の葉にくっついたセシウムは落葉すれば、木の葉にくっついたままそこにとどまります。水中のものは泥に吸着してそこにとどまります。しかし水には溶け出さないのです」
原発と放射能問題の専門家、奈良林直・北海道大学大学院教授が説明した。
「セシウムは極めて細かい微粒子なのですが、吸着性が高いために、空中を飛んで人家の屋根や木の葉にくっつきます。水に落ちれば水底に沈みますが、粘土と非常にくっつきやすく水底にとどまります。セシウムの微粒子が地中に潜ることも考えられますが、地中に浸透する過程で粘土質の土層にくっついてしまう。つまり、土の層が濾過層となって、井戸水からはセシウムが取り除かれるのです」
この説明に私自身、驚いた。水源地である山林が汚染されれば、即、水も汚染されると、私も考えていたからだ。遠藤村長にそう言うと、彼が弾むように応えた。
「ここは村の観光地のいわなの里です。豊富な湧水でイワナを育て、たくさんの人がイワナ料理に舌鼓を打った場所です」
山からの湧き水が音を立てて流れ込み、勢いよくしぶきを上げる。水中で素早く動く黒い影はイワナである。
「この水は昔も今もきれいです。ここの放射線量を見てください。それを郡山駅前の数字と比べてください」
いわなの里は0.178マイクロシーベルトだった。郡山駅は0.423マイクロシーベルトだった。遠藤村長が「数字を覚えていて」と念を押した意味がようやくわかった。その後、村役場前を含めて数カ所で川内村の放射線量の数値を確認したが、いずれも郡山駅の2分の1以下だった。
放射線量の低い所から高い所に川内村の人たちは避難させられ、現在に至っているのだ。菅直人、枝野幸男両氏らの政権以来、この皮肉な本末転倒は現在も正されていない。なんという政治の無策無能だろうか。
『週刊ダイヤモンド』 2012年3月31日号
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