公益財団法人 国家基本問題研究所
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役員論文

2012.05.07 (月)

現実離れの「ごっこ的」解釈排せ 西修

 現実離れの「ごっこ的」解釈排せ

 駒沢大学名誉教授・西修 

 私が大学に入ったのは、60年安保の年である。構内には、「安保反対」のデモの列が渦巻き、日米安全保障条約の改定はわが国を戦争に巻き込み、平和憲法に違反するという雰囲気がみなぎっていた。私にとって、憲法の研究へと向かう最初の契機となった。

 ≪国の安全と秩序正面に据えず≫

 大学院に進み、本格的に憲法の勉学に勤しんでから半世紀になろうとしている。その間、学界の主流派になじめなかった。なぜか。当初、左翼的、観念的学説が中心だったことが影響したのは事実である。自衛隊は憲法違反であり、改憲などはもってのほかというのが、憲法学者の大勢であった。

 憲法学は本来、憲法解釈、憲法思想、憲法史、比較憲法、憲法政策などを包摂する学問であるはずだ。だが、戦後の憲法学は、憲法学イコール憲法解釈という構図を形成してきた。しかも、その解釈は、個人の人権を中心に組み立てられ、国の安全や公共の秩序を真正面に見据えたものではない。

 自分たちの世界でしか通用しない「ごっこ的」解釈が通説とされてきて、解釈が社会の現実から遊離しているとしても、それは社会がおかしいのであって、社会が憲法に合わせるべきだという憲法至上主義が支配的だったといって過言ではない。その結果、現実社会の中で解決を見いださなければならない最高裁判所の判決に、そう影響を及ぼすこともなかった。

 憲法公布50周年を記念して開かれた日本公法学会の講演で、東京大学教授から最高裁判所判事に転じた伊藤正己氏はこう語った。

 「民商法、刑事法などの領域では明治以来今日まで、学説と判例は一般的に手を携えて解釈法理を発展させてきた。ところが、憲法の領域では学説と判例の落差が相当に大きいように思われる。率直にいって、民刑事法の領域に比較して、憲法判例の場合に裁判官を指導する力に乏しい気がした」

 15年を経た今も、憲法学説と最高裁判所の判例との関係に基本的な変化が生じたとは思われない。

 ≪文民条項の導入過程に興奮≫

 私が日本国憲法の成立過程と比較憲法の研究に深入りしたのは、日本国憲法の原点を探り、そこから憲法解釈の糸口を見つけることができるのではないかと思ったのと、各国憲法の現状と傾向を知り日本国憲法のありようを考える縁(よすが)にしたいと考えたからである。

 憲法の成立過程を調べていて、第66条2項(「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」)の導入過程を明確に示す2つの資料を発掘したときの興奮は、今でも忘れられない。

 1つは、英国国立公文書館で極東委員会の文書を調査中に目に飛び込んできた、いわゆる芦田修正を受けた会議の要録である。中身は、芦田修正によって自衛のためならば軍隊が保持できると解釈されるようになった→そうすれば軍人が誕生し、かつてのように軍人が大臣になって軍部支配(ミリタリー・コントロール)の恐れが生じる→そのような事態を阻止するために、国務大臣をシビリアンとする条項(文民条項)を憲法に入れるよう連合国最高司令官に勧告すべきだというものであった。

 もう1つは、アメリカのマッカーサー記念館で見つけた、陸軍次官補のピーターセンがマッカーサー宛てに送った至急電文である。それは、極東委員会の決定を受けてマッカーサーに対し、現在、審議中の議会に文民条項の導入を促すよう指示する趣旨であった。

 こうして、いわば強制的に日本国憲法に文民条項が入れられた。2つの資料を突き合わせると、芦田修正と文民条項との不可分の関係が明らかになった。そして、そのことは、第9条の解釈にあたっては、芦田修正を前提にしなければ正しい答えを導くことができないという根拠を意味していた。

 ≪あるべき憲法像語る時がきた≫

 比較憲法の視点から、全世界の憲法典を対象に研究していると、日々、新たな発見に遭遇することができる。新憲法といわれている日本国憲法は今や、古い方から14番目であること、60年以上も無改正の憲法は日本国憲法以外に存在しないこと、平和主義条項を設定している憲法典は優に80%を超えること、一方で、国家緊急事態対処規定を設けている憲法もそれ以上の数に上ること、人権では環境条項やプライバシー、統治機構では政党条項の編入はほぼ共通の現象になっていること、近年の傾向として財政均衡条項導入のための改正が多くの国で見られること等々。これら各国憲法の動向は、わが国における憲法改正論議で大いに参考にすべきだと思われる。

 今の時代、憲法学者に求められているのは、存在(ザイン)を対象とする憲法解釈だけでなく、当為(ゾルレン)としての、あるべき憲法像を語ることではなかろうか。多くの憲法学者が、憲法学界を覆っている偏狭な殻を打ち破り、自らの研究成果に基づいて「国のかたち」としての憲法論を語ることを期待しているのだが。(にし おさむ)

5月3日付産経新聞朝刊「正論」