エリート作る「教育の新幹線」を 平川祐弘
エリート作る「教育の新幹線」を
比較文化史家、東京大学名誉教授・平川祐弘
■エリート作る「教育の新幹線」を
戦後最初期のパリ留学生だった者が集(つど)った。サロンの中心は1950年代半ばに日銀パリ代表の夫人だった星野敦子さんで、当時、私は家庭教師で令嬢に数学を教えた。分母をデノミナトールとフランス語で教えたその直子さんも今や70過ぎである。
≪渡航途中で既に広まった見聞≫
日銀一家はフランス航空で直行し、大学院生はインド洋経由で渡欧した。船の方がプロペラ機よりまだしも安かったからだ。安いといっても、2等の24万円は当時の父親の半年分の給料だ。フランスはしたたかで給費留学生試験合格者に帰路の旅費は払うが、往路は自弁させる。フランス船は横浜からマルセイユまで1月かかるが、葡萄(ぶどう)酒は飲み放題で食事はホテル並み、金がかかるのは当然だ。
香港、マニラ、サイゴン、シンガポール、コロンボ、ジブチ、スエズと寄港するたびに見聞は広まる。日米が死闘したマニラ湾には艦船が何十隻も半ば沈没していた。上陸できない。反日感情ゆえかと聞いたら「上陸したければ保証金100ドルを預けろ。そのまま不法入国されては困る」と言う。当時、海外渡航者が持ち出しを許された上限の100ドルは、香港で少し使ったから足りない。「誰がフィリピンに移住するものか」と留学生たちは気焔(きえん)をあげた。
シンガポールでは年長者が「反日感情に気をつけなさい」と注意する。タクシーに乗るとはたして運転手がまくしたてる。だがよく聞くと言い分が違う。「お前らは日本人か。日本軍が攻めてきたときは愉快だった。英国人が震えて逃げた」。初めは何を言うかと私は警戒したが、インド系運転手は本気の日本軍礼賛だ。「いや、驚いた。反日だけでないのですね」と、若い私が言ったが、車を降りても訳知りの年長者はきょとんとしている。猛烈なインド系英語が聞き取れなかったその人の歴史認識はついに日本国内の新聞で学んだ知識の枠の外へ出なかった。
≪渡英経験が変えた伊藤博文≫
外国へ出て変わる人と変わらない人がいる。伊藤博文は幕末の日本の狭い外国認識の外へ出た若者で、英国船の水夫として働きながら渡英した。英語も学んだ。攘夷などできっこない、開国だ、とこの志士は転向した。国際政治家となった後年の伊藤は、船上でトルストイ『復活』を英訳で読みながら渡欧している。いまジェット機で外国との間をとんぼ返りする政治家にそんなゆとりはない。
パリ会の面々で留学の今昔に話の花が咲く。若者はなぜ外に出向かなくなったのか。それに反論する緒方貞子国際協力機構理事長の退任の辞が紹介された。「日本にグローバルな人材が減っているとは信じられない。開発途上国へ行きたいという人も多い。メディアは日本の若者は内向きになったなどと書かずに、志望者がいるのだから、彼らにもっとチャンスを与えよと書いて頂けると有難い」
同感だ。若者は新聞の紙面の気分に左右される。他に頼れる情報源が少ないからだ。以前のデモと同じで、外国行きも周囲が行くなら行く、行かないなら行かない。だが、そんな風潮を放置していいはずはない。留学体験者をキー・ポジションに就けなければ、日本はグローバル化する世界に伍(ご)して生きていけなくなる。とすれば、国家は対策を立てるべきだ。
≪可愛い子には旅をさせよ≫
官庁大学企業は留学体験が有利に働くよう採用試験を工夫すべきだ。複数外国語を試験科目に入れて成績に加算する。上級職志望者には海外での奉仕活動を義務づける。可愛い子には旅をさせよ、英才才媛には奨学金を出して留学させよ。英名門校は在校半ばで優等生の一流大学進学を内定し、奨学金を与えて大学入学前の1年を大陸でのびのびと修行させた。日本もこの際、高校2年から飛び級で大学を受験させよ。秋入学の際も入試は春に行い、合格者は海外へ半年なり1年半なり送り出す。留学生に選ばれた誇りと海外生活での体験が、左右を問わず日本の棟梁(とうりょう)の材に磨きをかけるだろう。
平成のわが国では塾に通い、名門高校を経て東大を出る者をちやほやする。その程度の教育では、週刊誌での評価こそエリートかもしれないが、グローバルに見るとeliteといえる実力はない。受験競争に勝ち抜いて官僚となったのだから、キャリア終了後は天下りする権利があるなどと思い込む人間に碌(ろく)な者はいない。ほかならぬ東大名誉教授の私たちが、各国の大学で教えた経験を踏まえて、「本郷法学部卒など大したことはないね」と言っているのだ。信用してもらいたい。
考えても見るがいい。今の東大では博士号もない教授も博士課程で平等に教えている。こんな図は悲哀を越えて滑稽だ。六三三四制の在来線の悪平等主義は耐用年数を越えた。何とぞ、日本に真のエリートのための「教育の新幹線」を敷いてもらいたい。フランスはパリ大学法学部だけでは不可と思い、別途エリート・コースを創ったのだ。これこそ正論と思うが、「罵詈雑言(ばりぞうごん)ね、昔のパリ雑言と変わらないわ」とたしなめられた。(ひらかわ すけひろ)
10月22日付産経新聞朝刊「正論」