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2012.10.25 (木)

いまこそ直視せよ、人民解放軍の光と影 櫻井よしこ

 いまこそ直視せよ、人民解放軍の光と影

 櫻井よしこ  

  
 

10月14日、海上自衛隊の観艦式で野田佳彦首相が行った訓示には勢いがある。首相は「海洋国家・日本の『礎』である海。我が国最大のフロンティアである海。我が国の海を守るという諸君の職責は日本人の存在の基盤そのものを守ることに他なりません」と語り、「我が国をめぐる安全保障環境はかつてなく厳しさを増している」と強調、海自の隊員に「一層奮励努力」せよと訓示した。

だが、最も奮励努力しなければならないのは、実は自衛隊よりも野田政権である。富坂聰氏の『中国人民解放軍の内幕』(以下『内幕』・文春新書、10月19日発売)を読めば、中国政府がいかに周到に陸海空、宇宙、サイバーにわたって力をつけてきたか、対照的に日本政府が尖閣国有化に当たってさえ、殆んど準備もしていなかったかが、明らかだ。

『内幕』を、その前年に出版された富坂氏を含む日米中の専門家4名の座談会、『日中もし戦わば』(文春新書)と合わせ読めば、日本政府の直面する課題がどれほど深刻でさし迫っているかが浮き上がってくる。

日本政府が尖閣諸島を国有化しようとしたことで、富坂氏は今年夏、人民解放軍が2年前と同様の提言を行ったと証言する。2年前、つまり、2010年9月7日、尖閣諸島沖で中国漁船がわが国の領海を侵犯し海保巡視艇への衝突事件を起こしたとき、人民解放軍の対外情報担当の総参謀部第二部が行った提言がある。

『内幕』にも詳述されている同提言は、「中国は、(対日)友好政策を暫定的に放棄すべきだ」と厳しく断じ、経済、社会制裁にとどまらず、以下のような軍事的対策を取るべきだと明記している。

①東シナ海で陸海空三軍合同の大規模演習を実施する、②1,000トン以上の大型の漁政(中国農業省所属の漁業監視船)、海監(中国国家海洋局所属の海洋監視船)を派遣し、海軍の軍艦を同行させる、③海軍陸戦隊と特殊部隊を尖閣諸島に上陸させ、主権を宣言し、主権を示す碑を打ち立て、迅速に撤収する。

人民解放軍の「曖昧さ」

「一戦を辞さず」の覚悟が必要と強調するこの提案と同じ内容が、今年9月、日本政府による尖閣国有化に関して中国政府内に提言されたというのだ。行き着くところまで行くという人民解放軍の現場の覚悟は、その時は、「明らかに政治的な判断が働いた」(富坂氏)結果、見送られた。

但し、この原稿執筆中のいま、中国海軍の艦艇7隻が沖縄県の先島諸島にある与那国島の南南東およそ49キロの海域を太平洋から東シナ海に向けて北上し、日本の領海のすぐ外側にある接続水域に入ったこと、尖閣諸島の魚釣島の南西およそ80キロの海域で日中中間線を越えて中国側に戻ったことが報じられた。

7隻もの軍艦がわが国の接続水域を通過していったことは明らかに人民解放軍の意向が政治に反映されたと見るべきだろう。日中関係は極めて微妙で重大な局面にあり、有事まで想定して備えなければならないといってよい。

このような状況でとりわけ気になるのが中国におけるシビリアン・コントロールだ。中国共産党の「政治的判断」に人民解放軍は果たして全面的に従うのか、尖閣諸島、東シナ海、南シナ海問題で中国政府は人民解放軍へのシビリアン・コントロールを保てるのか、疑問である。

米戦略国際問題研究所日本部長のマイケル・グリーン氏が『日中もし戦わば』で興味深いことを語っている。01年4月に米国のEP3偵察機が中国軍機に接触されて海南島に不時着した。当時、NSC(アメリカ国家安全保障会議)日本・朝鮮担当部長だったグリーン氏は、ブッシュ大統領は実に9回も江沢民国家主席に電話をかけて話し合おうとしたが江主席は一切電話に出なかったと振りかえっている。駐中国大使も太平洋軍司令官も各々中国側とコンタクトを試みたが通じず、米中間のコミュニケーションは一時期、全面的切断に陥った。一歩間違えば重大な事態に発展しかねない安全保障上の空白が生じていたのだ。

それから10年以上経った今、米中間の危機回避のメカニズムは確立されているか。グリーン氏は「ノー」と語り、理由は、中国側がそれを望まず、人民解放軍はある種の「曖昧さ」を残そうと考えているからだと、分析する。

異常な軍拡や空母建造はなんのためか、一連の疑問に中国は全く答えない。説明不足を正当化するために中国は言う。「強い国と弱い国がある場合、弱い国が透明性を高めることは弱い方がさらに不利になり、さらに損をする結果になる」と。だから、米国に較べると弱い中国は説明する必要はないという理屈だ。グリーン氏の指摘する「曖昧さ」はこのことを指している。

「二砲」という組織

富坂氏は別の視点から中国のシビリアン・コントロールの限界を指摘する。中国の指導部(党中央政治局常務委員会)9名の内、軍と接点があるのは胡国家主席と習近平国家副主席の2名のみだが、これは毛沢東が軍を党内の勢力争いに巻き込ませないように政治と軍を明確に分離した結果である。軍は確かに党内政治の争いとは距離を置くことが出来たが、逆に、党と軍を結ぶチャンネルが細くなったというのだ。富坂氏は語る。

「陸軍160万、海軍26万、空軍33万の200万を超える軍隊に、トップの1人か2人が乗り込んでも、組織の把握など出来ません」

中国人民解放軍の意思決定のメカニズムについては、『内幕』に譲りたいが、解放軍の装備、人員、あらゆる内容の充実振りについて、野田首相以下、日本の政治家はとりわけ注目すべきだ。まず、通常の陸海空三軍に加えてミサイルと核兵器を専門にする「二砲」という組織の存在だ。中央軍事委員会の直接の指揮下にあり、中国全土に20以上のミサイル旅団と8か所のミサイル基地を擁し、技術者を含めた総兵力はわが国の陸上自衛隊を超える15万8,000人に上る。

特殊精鋭部隊としての第十五空降軍は二砲と同じく党中央軍事委員会の下にあり、兵力は3万5000、考え得る限りの先進的な装備を与えられ、ハイテク戦争の前面に立つ。十五軍は選び抜かれた約400名の幹部によって構成され、全員が軍事教育部門で教育され、その6割が大卒である。大学進学率35%の中国では、真のエリート集団である。

サイバー及び宇宙戦用の兵力として中国は各軍区、研究機関、大学、民間企業に至るまで国家の全力をあげてその要員をふやしつつある。

こうした中国の脅威に対する防衛力を野田政権はまさに奮励努力して強化しなければならないのであり、それにはまずなによりも大幅な防衛費増強が必要だ。

『週刊新潮』 2012年10月25日号
日本ルネッサンス 第531回