公益財団法人 国家基本問題研究所
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役員論文

2012.11.08 (木)

憲法改正、保守は大同につけ 櫻井よしこ

  憲法改正、保守は大同につけ

 櫻井よしこ  

  
    

「命あるうちに最後のご奉公をしたい」

80歳の石原慎太郎東京都知事が辞任記者会見で吐露した想いは、私にもよくわかる。日本に充満する閉塞感を氏はこう表現した。

「明治以来の中央集権、官僚制度をもう1回シャッフルしたい」「この国にはバランスシートがない。国の会計をなぜ複式簿記にしない」「ゆとり教育が学力を落とした。旧文部省は公式に取り消していない」「憲法を破棄する」

いずれも真っ当な憤りだ。日本は深い危機の中にある。国際社会は中国を中心軸とする一党独裁国家群と、自由、民主主義、法の支配を基本とする私たちの側に、大きく二分され、日中のせめぎ合いはかつてないほど深刻である。

残念ながら原因の少なくとも半分は、理不尽な中国に対して自らの主張を展開できず、国として国土、国民を守る気概と、最後の手立てとしての軍事力行使についてはその気配さえ示そうとしない日本政府の側にある。国民と領土を自力で守る責務を日本国は忘れて久しい。

だからこそ、石原氏は戦後体制の元凶である憲法破棄を主張するのだ。いま、戦後67年の垢を洗い落とす根本的な改革を断行しなければ日本は沈没する。石原氏の憂いは誰しもが共有する憂いであり、いまや複数政党が憲法改正を喫緊の課題と位置づける。政治の機能不全も、国家の気概が見えないのも憲法前文や9条に由来することを過半の国民も実感し始めた。憲法を破り捨てよと主張する石原氏への同調者が多いゆえんである。

氏の主張をきかずとも、現行憲法の欠陥は明らかだ。第一に、日本語がまともではない。石原氏は「助詞もいくつか明確に間違っている」と語ったが、文法はもとより、表現自体、まともな日本語ではない。文学者ならずとも、味も深みもない日本国憲法の文章は耐えられない。シェークスピアに600年も先がけて、紫式部や清少納言が世界に冠たる文学を生み出したわが国の深い文明に照らせば現行憲法はまず文学的に落第である。

突然、奴隷が…

憲法前文の卑しい他力本願志向と自らは何もしないという無責任な精神、それを具体的に書き込んだ9条こそ、深く日本を蝕んできた。第三章の国民生活に密着した価値観には異常さが目立つ。

こうしたことを考えると、条文毎の吟味や改正ではもはや遅すぎる、破棄だとの石原氏の主張が実現するのであればどんなにスッキリするかと考える人々がいるのは当然だ。一方で、戦後体制に深い疑念を抱きながら、破棄ではなく改正で臨みたいとする人々にも注目したい。

たとえば自民党総裁の安倍晋三氏が顧問をつとめる超党派の「憲法96条改正を目指す議員連盟」である。現在、約250名が賛同の署名をしており、その数を倍増すれば96条の改正が可能になる。

ちなみに96条は憲法改正の手続きを、衆参両院の3分の2以上の賛同が必要と定める条項である。議連はこれを「2分の1以上」に改正したいとする。安倍氏が語った。

「昭和27年4月、わが国が独立を回復したときが憲法破棄の機会でした。あのとき、日本国の主権が奪われた占領下で定められた憲法は無効だと宣言すればよかったと思います。しかし、60年以上を日本国は現行憲法の下で過ごしてきた。いわば時効を迎えてしまったのではないでしょうか」

氏の考えは、60年余り続いた現行憲法体制を劇的に破棄することが民主主義体制に及ぼす負の影響を踏まえてのものであろう。民主主義の手続きを丁寧に踏もうとすれば、まず96条を改正して、次に条文毎に表現と内容を変える、或いは削除し、或いは加える作業が必要になる。

削除すべき条項としてたとえば18条、「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」がある。わが国には奴隷など存在したことがない。にも拘らず、突然、奴隷が日本国憲法に登場するのはまさにアメリカの価値観ゆえだ。米国は奴隷解放を巡って南北戦争を戦い、リンカーンが1863年11月に有名なゲティスバーグ演説をした。奴隷という表現はその演説に由来しているのである。

このようにアメリカにとっては非常に大事な価値観であっても、日本にはまったく馴染まない条文は削除するのがよい。反対に昨年の3・11で実感した非常事態条項の欠如という欠陥を正すためには新しい条項を加えるべきだ。

条文毎の改正では多くの主張が展開され時間もかかる。効率も悪いだろう。しかしそれが民主主義であり、民主主義の手続きを踏んで定められたルールは簡単にはひっくりかえらない。反対にその手続きを無視する場合の危険は、次のような可能性を考えれば実感できるのではないか。

手法に違いがあるだけ

事実上革命といってよい憲法破棄の手法で日本国らしい憲法を石原氏や平沼赳夫氏ら保守的な政治家が作ったと仮定する。それはそれでよいかもしれない。けれど、革命的な手法が許されるのであれば、石原氏ら保守的な政治家のあとに正反対の政治家が登場して、一大勢力を獲得して、またもや憲法を破棄したらどうなるか。その可能性が絶対にないと言えないのである。であれば、どれほど面倒でも民主主義の手続きを踏むのがよいのではないか。

それでも私は、石原氏の考えを「過激だ」「右翼的だ」と非難してはならないと強く思う。憲法破棄論者も憲法改正論者も目指すところは同じである。手法に違いがあるだけで、保守派は、その違いを巡って対立する必要も、まして分裂する必要もない。同じ目標を掲げる人々であれば、むしろ決して分裂してはならない。手法の違いは、互いに協力し知恵を出し合って乗りこえればよいことである。

これまで、教科書問題に見られるように、保守といわれる人々が内輪の対立を制御できず、分裂してきたのは、本当に残念なことだ。折角の志が、分裂で打ち消され、勢いをなくしてしまうような状況は、日本のためにこそ、強い意思力を発揮して避けるべきである。

私は、今年民間憲法臨調の代表に就任し、この1~2年という近い将来に是非、憲法改正を実現したいと切望している。方法としては、前述の96条の改正で、すべての条文を民主主義に基づいて改正できるようにすることが大事だと考えている。96条改正の暁に、条文毎の議論を重ねて、日本国の基盤を作り直すのがよい。日本国の新たな基盤作りの中で、石原氏らの考え方も、大いに反映していけばよいとも思う。

なによりも大事なことは、現行憲法の精神から脱却するという大目的の下に、小異の壁を乗りこえて大同のために力を結集することだ。

『週刊新潮』 2012年11月8日号
日本ルネッサンス 第533回