公益財団法人 国家基本問題研究所
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役員論文

2012.11.22 (木)

法王が期待する日本の役割 櫻井よしこ

法王が期待する日本の役割

 櫻井よしこ  

  

11月13日、参議院議員会館の講堂は熱気に溢れていた。チベットのダライ・ラマ法王14世を迎えて「普遍的責任と人間の価値」の講話を聞く会が、国会議員134名、代理98名の計232名の出席で開かれたのだ。当初、約100名と見られていた議員の出席が大幅に増え、急遽会場を国際会議室から講堂に移しての開催だった。

これまで欧米諸国が自由と人権を尊ぶ意思を示すために、中国とのあらゆる軋轢を覚悟の上で法王を招いてきたのとは対照的に、日本が法王を国会の施設での講演に招いたのは今回が初めてだ。長年チベット問題に取り組んできた民主党衆議院議員の牧野聖修氏が興奮気味に語る。

「これだけ多くの議員が法王の講話に集まった。日本は欧米諸国を追い越したと思います」

会場では議員、研究者、メディア関係者ら全員が起ち上がって法王を拍手で迎えた。法王はひとりひとりの顔を見ながら進み、白い髭をたくわえた議員の前で立ち止まり、髭に触って親しく額と額をくっつけてみせた。法王の人懐こい仕草に皆一斉に笑い、会場の緊張が一挙に解けた。

歓迎の言葉を民主党有志を代表して牧野氏が述べ、次に「自民党有志代表」と紹介された安倍晋三氏がスピーチに立った。氏が「自民党有志代表ではなく、私は自民党代表として法王猊下を歓迎します」と述べると、またもや会場は拍手で沸いた。

確実に日本は守るべき価値観を守る新しい次元に入りつつある。

法王は幾度も、科学者、宗教家、ビジネス界や一般の人々と対話し親しみを深めてきた日本で、初めて多くの国会議員とざっくばらんに話せることをとても喜び、若々しい声と表情で語った。

「私は人類70億人の中の1人にすぎません。科学の目で見れば、我々は精神的、肉体的、感情的に皆同じ構造で生まれてきた人間です。とりわけチベット人と日本人は外見も似ていて非常に親しみ深く感じています」

国会議員232名の意味

21世紀のいま、私たちは未だに人間や国同士の争いをなくせずにいる。言語、民族、国家の違いを強調しすぎて、大きな枠組みで人間として同じ立場に立つことに十分関心を払わなかったからだと法王は指摘する。

これまでに多くの科学者と対話したことを踏まえて、法王はこう語った。

「仏教徒の最も崇高な課題は、生あるものへの思いやりの心を育み、彼らの幸せのために出来るだけのことをすることです。他者の幸せを考えることは自分を高め、勇気を手にすることです。こうしたことは仏教的立場だけでなく、科学的立場からも証明されています。たとえば持続する怒りや憎しみを抱く人の免疫機能は顕著に低下し、その反対の場合、上昇することが知られています」

心と体はひとつ、1人と70億人もひとつなのだと法王は仰るわけだ。

講話の第2の柱は、仏教徒の視点から見る世界の実相だった。

「一介の僧として世界を見ると、宗教心が、分断や暴力や争いをひき起こしていることに気づかされます」

科学の世界も同様で、人間が自分の分野に執着する場合、拘りは偏見につながり真実が見えなくなる。従ってそれを乗り越えることが重要だ。

「キリスト教は世界の創造主として神を受け入れています。仏教やジャイナ教はその考えはとらず、かわりに私たちは因果の法を持っています。自分が創造主という立場をとるのです。両者は哲学的には異なります。しかし目指すところは同じです。宗教を含めて、全てに異なるアプローチがあって当然です」

宗教や文化の違いに端を発する争いは尽きない。軍事政権と中国の強い影響から距離を置きつつ民主化を進めるミャンマーでは、仏教徒とイスラム教徒の争いが、少数民族の争いと重なって表面化している。バングラデシュも同様だ。さらに、仏教国では大乗仏教と小乗仏教の違いゆえの争いもある。
「人間には知性が与えられています。異教間の調和に基づく相互理解も可能なはずです。民主主義の信奉者として、私は互いを尊重し、異教の壁を乗り越え、異なる価値観全てが尊重される世の中をつくりたい」

最後に法王は、チベット人として日本人に伝えたいと切り出した。

「チベット北部のアムド出身のチベット人として2つのことを申し上げたいのです。まず環境問題です。チベットは世界の屋根、或いは北極南極につぐ第3の極ですが、いま、南北の極と同じくチベット高原も温暖化で深刻な環境悪化に陥っています。とりわけ水資源に異変の兆候が明らかです」

チベット高原で生まれる川は600万のチベット人の生活だけでなく中国を含むアジア全土、及びインドをも潤し、命を育んでいる。

「その豊かな水資源が危機に瀕しています。過度の森林伐採で洪水が発生し、水資源の略奪で幾本かの川は干上がっています。チベットで生み出される豊かな自然とその資源を究極の乱調に陥れるのは、どうしても防がなければなりません」

日本らしい歴史の種

法王は中国を名指しすることはなかったが、アジアの水資源の乱調はその多くの原因が中国とされる。
チベット仏教についても法王は語った。

チベット仏教は愛、慈悲、平和、非暴力に貫かれている。中国人約400万もチベット仏教を学んでいるが、しかし、と法王は語る。

「心の狭い中国共産党の役人たちは、チベット仏教の真の姿を知ろうとせず、単に怖れます。チベット仏教は国家分裂の原因になると怖れるのですが、そんなことはありません。インドを見ればわかります」

ヒンズー、イスラム、仏教、その他の宗教が混在し、言語も文化もイデオロギーも州や地域によって大幅に異なり、多様性の極致を行くインドだが、分離独立、国家分裂の目立った動きが生まれているわけではない。

「チベットに高度の自治を認めても中国の分裂を招かない道はあるのです。にも拘わらず、チベット人への苛烈な弾圧が続いています。私はこのことをチベット人として、アジアの重要な国、日本の国会議員を前にしてどうしても訴えたくなります。しかし私は政治を引退した身です。これ以上語るのはやめましょう」

まだ多くを語りたかったに違いない法王は、そこで発言を止めた。だがそれ以上語らずとも、全員に思いは伝わった。だからこそ、134名の国会議員の総意として「チベット及びウイグルなどに対する中国の不当な人権弾圧について、改善を中国政府に厳しく求め」るアピール文を採択した。

「チベット支援国会議員連盟」設立も決定された。日本はようやく、日本らしい歴史の種を蒔いたのである。

『週刊新潮』 2012年11月22日号
日本ルネッサンス 第535号