公益財団法人 国家基本問題研究所
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役員論文

2011.06.07 (火)

首相の出処進退に見る彼我の差 田久保忠衛

首相の出処進退に見る彼我の差

杏林大学名誉教授・田久保忠衛 

 

 ≪国家、国民不在の一大茶番劇≫

 東日本大震災から3カ月もたとうというのに復興もままならず、いまなお10万人の方々が避難所暮らしをされる中で、蝸牛(かぎゅう)角上の争いを演じて余念のない永田町の人々に対する私の怒りは日々募っている。「国権の最高機関」に属す代議士諸公が演じたのは、詐欺師団の騙(だま)し合いだった。菅直人首相が鳩山由紀夫前首相を引っ掛けたのが最初である。鳩山氏が「不信任が出る直前には『辞める』と言い否決されたら『辞めない』と言う。こんなペテン師まがいのことを、時の首相がしてはいけない」と感情を高ぶらせたのは自身が間抜けだったと認めたに等しい。

 同じく騙しに気付かなかった与党、民主党の小沢一郎元代表と、行動をともにした人々は、動揺したというよりホッとしただろう。不信任案が可決され解散・総選挙になれば落選する一年生議員らを抱えるこのグループは破滅した。「筋を通した」同派議員は松木謙公、横粂勝仁の2氏であった。

 最大野党の自民党は大義名分を掲げてきたようなことを言ってきたが、そうではないらしい。「菅氏の判断はこの際、やむを得なかった」と同情的社説を書いた朝日新聞は、解説記事で、「執行部は当初、可決は難しいと考え、民主党の分裂を助長させることを狙っていた」と説明している。石破茂政調会長は、「小沢チルドレンが決起するという誤った情報に踊らされて高揚したのは間抜けなことだ」と冷たく言い放ったという。公明党と組んだ自民党は大空振りをして尻餅をついてしまった。

 ≪復興の支障は菅首相その人≫

 菅氏の「ペテン」が始まりで、次から次へと連鎖反応が生じ、日本の政治でも稀(まれ)に見る低次元のドラマが全国民の眼前で展開された。国家、国民、東北被災者の悲痛な思いに、ドタバタ喜劇のプレーヤー全員は少しでも思いを致したのか。解散・総選挙が自分にプラスになるかどうか、野党が出す不信任案に乗ってあとから後ろ指を指されないかどうか、民主党を2つに割らないためにはどうするかなどの邪念から迫力ある行動は生まれない。

 菅打倒の一念に燃えていったんは辞表を提出した副大臣、政務官4氏が不信任案に反対し一夜のうちに菅首相の慰留に応じて笑顔を見せたことは、日本政治史の脚注で解説されるかもしれない珍現象だ。辞表は人間社会の厳粛なケジメであるとの常識は、国権の最高の地位にある人々によって破られた。

 遅々として進まない被災地の復興、避難所で苦しむ人々、東京電力福島第1原発における不手際の連続、あくまで人気取り策としての浜岡原発の中止要請など、菅首相の判断の誤りに起因する諸措置を調べれば調べるほど、復興の支障になっているのは菅首相その人であることに気付くはずだ。復興に取り組む最中に不信任案はどうかと思う、野党の出す不信任案に乗るのは筋が違うなどという、訳知り顔の解説は、自分の延命だけで頭がいっぱいの菅首相の大きな誤りを糊塗するだけだ。

 ≪トップは引き際考えよと一喝≫

 陽明学の大家として知られる安岡正篤氏のところに、さる大物財界人が、社長就任のあいさつに行った。新社長としての哲学を、と教えを乞うた途端、「トップに立つ人間は引き際をどうするかを考えるものだ」と一喝されて恐縮した話を、直接、この財界人から聞いたことがある。

 菅首相は小沢氏が強制起訴された際、「政治家としての出処進退を明らかにして裁判に専念されるのであれば、そうされるべきだ」と述べた。が、鳩山氏の示した条件に署名するのを拒否、退陣時期は明示せず、「復興基本法と第2次補正予算案編成のめどがついたとき」との条件に「原発冷温停止のめど」まで付け加えて逃げ回っている。小沢氏に出処進退を迫った人と同一人物なのだろうか。

 サッチャー元英首相の回顧録は、フォークランド戦争開始という重い決断について、「われわれが1万3千キロもかなたの南大西洋で戦っていたのは、領土やフォークランドの住民たちもむろん大切だったが、それ以上に大切なことのためだった。われわれは、国としての名誉、そして全世界にとっての基本的に重要な原則、すなわち何よりも国際法が力の行使に勝たなくてはならないという原則を守ろうとしていた」と記している。この気概を日本の政治家の何人が理解できるのか。

 回顧録の圧巻は、彼女が周囲の人々に次第に裏切られ、党首選から撤退するときの懊悩(おうのう)と決断である。すべての事情を頭に入れたうえで、簡単な辞任声明、次いで下院演説の草稿を書き上げ、女王に拝謁する。下院演説で「何世紀もの歴史と経験は、原則が守られなくてはならない時、善を擁護し悪に勝たなくてはならない時、必ずイギリスは武器を持って立ち上がることを示しています」とぶち、「喝采が耳を聾(ろう)する中で、私は着席した」と書いている。指導者の出処進退の彼我の差は、いかばかりか。晩節は汚してはならぬ。(たくぼ ただえ)

6月6日付産経新聞朝刊「正論」