冷静な思考でTPPを国益に繋げよ 櫻井よしこ
冷静な思考でTPPを国益に繋げよ
櫻井よしこ
環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)に関して、「TPP賛成派はバカか売国奴」(『WiLL』2012年1月号)などと、強烈な見出しが目につく。書籍の題名にも「間違いだらけ」「食い物にされる」「詐欺だ」などの言葉が躍る。
日本の国益を考えた憂国の想いゆえにこうした表現がなされるのであろう。しかし日本はいま大事な局面に立っている。事実に基づいて冷静すぎるほど冷静に考えなければ、本当に国益を損ねる結果に、自ら落ち込んでしまいかねない。
TPP反対論で目立つのは「TPPは米国の陰謀」で日本市場を奪おうとしているとの主張だ。昨年、横浜で開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)で、オバマ大統領が14年までの5年間に輸出を倍増すると語ったことを以て、その目的達成のためにも、米国は日本の市場を席巻しようとしているというわけだ。
だが、TPPで、日本を一方的に席巻し、食い物にするようなルールがどうして生まれるのか。ルールは米国だけの考えで決められるのではない。多国間の交渉で決定されるのである。交渉はまさに各国の利害をかけた戦いであり、どれほど米国の影響力が強くとも、交渉の過程で相互の利害を勘案した着地点が構築されていくものだ。
それでも米国が独断専行的に決めようとすると仮定しよう。諸国は米国の専横を嫌って、ASEANに日中韓(ASEAN+3)、或いはさらに豪州、ニュージーランド、インドを加えたASEAN+6などにシフトすることを考えるだろう。
事実、中国は日本のTPP交渉参加に焦って、これまで応じようとしなかった日中韓、或いはASEAN+3などの交渉について、俄に積極的になった。
多国間交渉の長所はひとつの強国の専横が通用しないことだ。だからこそ、日本も参加して、交渉の場で国益を守るためのルールを提案することが大事なのだ。
米国にむしり取られる?
TPPに参加したら、一体どんな結論をのまされるかわからないと心配する声もある。けれど、結論、つまり着地点が最初から見える交渉などあまりないはずだ。交渉とはまさに勝ち取っていくものだからである。
日本はTPPのルールによって米国にむしり取られると無闇に恐れる人々は以下のことを忘れないでほしい。TPPのルールは加盟国すべてに適用されるのである。米国が日本をむしり取るというのがどんなルールを指しているかは定かではないが、その同じルールを日本が米国に対しても使うことが出来るのであるから、日本だけが一方的に攻め込まれ、むしり取られるというのは考えにくいのではないか。
日本と豪州が中心になって1989年に創ったAPECが、2020年には実現したいと目指しているのがアジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)である。TPPはわが国が大目標として決定済みのFTAAPを実現する道のひとつなのである。わが国も重要な役割を担っているAPECでFTAAPという大目標を決めたことには殆どなんの恐れも批判もなかった。そこへのひとつの道としてのTPPになぜこんなに激しく反応するのか、私には理解し難い。
前述の輸出倍増を実現するのに、米国が日本市場を席巻するという主張も合理的とは思えない。現在、米国の最大の輸出先はカナダで、全輸出額の19%を占める。メキシコが2位で13%、中国が7%で続き、その後に第4位の日本が5%を占めている。
TPP参加を以前から表明してきたニュージーランド、チリ、シンガポール、ブルネイ、ベトナム、ペルー、マレーシア、豪州などに比べれば、日本の比重はたしかに非常に大きい。しかし、米国全体の輸出を5年間で倍増するためにたった5%のシェアでしかないわが国に狙いを定め、そこだけで全体額の倍増を目指すなどという考えは成り立ちようがない。
加えて米国の日本向け輸出の大半は工業製品である。関税は2・5%から3%程度とすでに相当低い。TPPで関税ゼロになったとしても、米国製品の優位性が飛躍的に高まって日本市場に米国の工業製品が怒濤の如く流入する事態は考えにくいのである。
米国の対日輸出の内、約18%が農産物及び食料品で、最大の輸出品目は穀物である。しかしトウモロコシなどはすでに関税ゼロで、TPP如何に拘わらず、影響は少ないと思われる。
「TPP研究会報告書」
一方、牛肉の関税は高く、撤廃されればたしかに影響を受けるだろう。しかし、そのときでさえ、日本の高品質の牛肉も関税なしで輸出出来ることを忘れてはならない。ルールは必ず相互に適用されるのだ。特定の国が一人勝ちするルールが生まれるわけではない。だからこそ、米国の酪農業界は豪州やニュージーランドの輸出攻勢を恐れてTPPに反対している。砂糖業界も同様に強い反対を表明しており、TPPの交渉で米国が砂糖を関税撤廃の例外品目にしようとすると見られているのは周知のとおりだ。
ISDSについても厳しい批判と激しい反発がある。これはInvestor State Dispute Settlementの略で、投資家が投資先国家の政策によって被害を受けた場合、投資先国を訴えることが出来るという紛争処理条項だ。
ISDSに関して、分かり易く、しかも事実関係を踏まえて説明しているのが、キヤノングローバル戦略研究所での議論をまとめた「TPP研究会報告書」ではないだろうか。その34頁から36頁にかけての説明をざっと紹介する。
・ISDSに抵触するとして国が訴えられるのは、いきなり企業の資産を国有化するのと同じような「相当な略奪行為」に対してである。
・TPP反対論者が挙げるメタルクラッド事件は、ごみ収集を手がけていた米企業にメキシコ政府が訴えられ敗訴した事例である。メキシコ政府は明らかに外資企業に対して恣意的または差別的扱いを行っていた。
・カナダ政府が米国燃料メーカーに訴えられた事例は、規制が外資企業に一方的負担を課すものだった。同件は米企業との問題以前に、その一方的規制と国内手続きの違反とによって、カナダ政府が自国の州政府に訴えられて敗訴したケースだった。
つまり、外国企業が投資先国を訴えることが出来るのは、外国企業を狙い撃ちした明らかに不当な措置をとった場合に限られるというのだ。このようなルールであれば、たとえば、中国がTPPに入ってきた暁には、中国の日本企業に対する不当な政策や措置を、日本企業は訴えることが出来るのであり、日本にとって大いに喜ぶべきことである。
いま、本当に冷静に考えよう。
『週刊新潮』 2011年12月15日号
日本ルネッサンス 第489回