10月の総選挙で躍進した国民民主党が掲げる「『年収の壁』を103万円から178万円に引き上げる」との提案について、活発な議論が行われている。「年収の壁」とは、年収が一定の金額(「壁」)を超えた場合に税や社会保険料の負担が増えることを言い、その結果、「壁」を超えないように労働者は働く時間を調整し、人手不足が増幅されることとなる。103万円、106万円、130万円、150万円等の「壁」があるが、このうち、106万円(従業員51人以上)、130万円(従業員50人以下)は、年収がそれぞれの金額を超えると労働者は社会保険料(年収の15.66%)を支払わなければならず、「壁」を超えた分についてのみ所得税の課税対象となる「103万円の壁」よりも、負担が大きい。即ち、「社会保険料の壁」は「急にせり上がる崖」となってしまうのに対し、「税の壁」は「緩やかな上り坂」のようなものである。
「103万→178万」に一定の合理性
一般に税額は、「税率×(年収―所得控除)―税額控除」で計算される。ここで、所得としてパート労働等の給与所得を念頭に置き、税額控除を無視し、他の所得控除がないものとすると、課税最低限は、基礎控除(48万円)と給与所得控除(55万円)の合計で、103万円となる。この場合、年収が103万円までは課税されないが(ここでは地方税は考慮しない)、これを超えると課税が発生する。しかし、103万円を超過した部分にのみ課税されるので(例えば、年収104万円の場合、最低税率5%が適用され、税額は500円にすぎない。即ち、(104万円-103万円)×5%)、負担が急増するわけではなく、年収が103万円に近づいた場合に、それを超えないように労働時間を調整するのは、別の要因、例えば、子の年収が103万円を超えると親の給与所得の扶養控除の対象から外れてしまう等の要因が大きいと思われる。
経年の「年収の壁」を調整する基準としては、物価上昇率によるのが一般的であるが、その場合は、「壁」を103万円と設定した1995年から現在まで約10%の物価上昇となっているので、調整後の「壁」は10.3万円引き上げて113.3万円となる。しかし、国民民主党は、最低賃金の上昇率を基準にすることを主張する。その場合は、1995年からの上昇率は73%なので、調整後の「壁」は178万円となる。どちらを基準にするかは、政治的判断であるが、「年収の壁」によって労働時間の調整が行われ、それが人手不足の原因の一つとなっているので、パート労働者が「壁」を意識することなく好きなだけ働いても損をしない制度を作ることが、今回の「年収の壁」の引き上げの目的であり、178万円まで引き上げることには一定の合理性がある。
経済の好循環で財源は賄える
課税最低限を178万円に引き上げた場合、高額所得者に対する減税効果の方が大きく、不公平であるとの意見もあるが、もともと高額所得者の納税額の方が大きいので、「壁」を引き上げた場合に減税効果も大きくなるのは当然のことである。また、178万円に「壁」を引き上げるためには、7兆~8兆円の財源が新たに必要となり、実現が困難との反論があるが、拡大された「壁」の内側で、パート労働者が働く時間を増やし、それが所得と消費の増加をもたらし、経済の好循環の契機となれば、財源は十分に賄われる。近い将来、2%の物価安定目標が持続的に実現することが見込まれ、それに伴って持続的な自然増収が期待できるのであるから、そのきっかけとなる給与所得の拡大を「年収の壁」で阻害することがあってはならない。
税収減の可能性を理由に、財政の健全化に対する懸念を強調する意見があるが、財政の健全性は、債務比率(政府の債務残高の名目GDP〈国内総生産〉に対する割合)で判断するのが世界の常識である。名目の経済成長が何より重要なのである。常に債務残高の大きさを持ち出して反対するのは、「反対のための反対」としか考えられず、受け入れられない。
本丸は「社会保険料の壁」の引き上げ
本当の「壁」は、「社会保険料の壁」である。仮に、国民民主党の言うとおり、「税の壁」を178万円まで引き上げても、106万円ないし130万円の「社会保険料の壁」は乗り越えられないであろう。必要な政策手段は、「税の壁」即ち、基礎控除等の178万円への引き上げに併せて、社会保険への加入義務が発生する収入の限度額(「社会保険料の壁」)を同額まで引き上げることである。「税の壁」は、課税最低限度を超えた分に税率をかけるだけだが、「社会保険料の壁」は、106万円、130万円を超えた場合には、年収全体に対して社会保険料がかかり、この壁は高い。
従来から、殆どのパート労働者は「社会保険料の壁」を超えていないのだから、もともと政府は保険料収入を得られていない。「社会保険料の壁」を178万円に引き上げたからといって政府の保険料収入が減るわけではないのである。この政策によって「壁」を気にしない働き方への転換が起こることが期待される。
「年収の壁」の引き上げの目的は、労働者が働きたいだけ働き、その分、手取りが増え、損をしない制度づくりである。その本丸は「社会保険料の壁」の引き上げにある。(了)