公益財団法人 国家基本問題研究所
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原発をどうする

2011.10.12 (水) 印刷する

犠牲の受け入れが必要な時もある 岩崎良二

 国運を左右する判断においては、払う犠牲は大きくとも、国民はそれを受け入れなければならないことがある。好むと好まざるとにかかわらず、日清・日露の戦勝が我が国をいわゆる一等国に押し上げたが、その代償として夥(おびただ)しい犠牲を払った。この場合、庶民が厭戦(えんせん)気分になることは致し方のないことであろう。しかし、国家としては選択せざるを得ない判断ではなかったか。資源、エネルギー、食糧、国防、外交までを他国に依存し、その多くを金で手に入れようとする考えは、経済的に合理的であっても、精神的には堕落である。しかも、それはおそらく高橋憲一氏も唾棄する戦後憲法が企図する、自立できない国家の所業である。
 犠牲は誰しも嫌である。しかしあえて血と汗を流し、エネルギーを自前で調達すること、自前にこだわることは自存自立への道である。戦後、公と私のバランス感覚を喪失して久しい。なるほど、被害に焦点を絞れば原発事故の被害は甚大かつ残酷である。しかし、犠牲を伴う選択を回避し続けていいのだろうか。仮定の話であるが、他国に攻められたとき、その被害と犠牲の甚大さゆえに国防を放棄するだろうか。
 私は、エネルギー問題は安全保障と軌を一にする国家の存立にかかわる問題と認識する。百年後の世界情勢は誰にも分からない。化石燃料があるとも限らない。であるならば、被害住民には受け入れ難いであろうが、国家としてはあえて原発を存続させる怜悧(れいり)な判断も必要だ。国力の盛衰を他国に委ねる「原発抜き」の判断は百年後に大過を招く恐れがある。