公益財団法人 国家基本問題研究所
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2014.02.06 (木) 印刷する

故遠藤浩一理事・お別れ会(3月1日)について

日時:3月1日(土)午後1時半から3時
場所:大手町サンケイプラザ 4階ホール
   東京都千代田区大手町1-7-2
拓殖大学・産経新聞・国基研三者共催
発起人 福田勝幸拓殖大学理事長(代表)
    渡辺利夫拓殖大学総長
    櫻井よしこ国家基本問題研究所理事長
    熊坂隆光産経新聞社社長
    高木義明民社協会会長・衆議院議員

なおご供花・ご供物・ご香典の儀は固くご辞退申し上げます

お問い合わせ先 拓殖大学 総務課 03(3947)7111

 

追悼・遠藤浩一理事

荒木和博国基研評議員

 一月四日正午、お茶の水のガーデンパレスで拓大教職員の新年挨拶会があった。そこには遠藤さんの顔も見えた。
 他の人と話しているとき彼が通りかかったので挨拶だけして、後でゆっくり話そうとして探したときはすでに姿がなかった。「次の用事でもあるのかな」と思いながら私も会場を後にしたのだった。
 翌朝、高木啓・都議会議員から電話があり「遠藤浩一さんが亡くなりました」と聞いたときは、最初何のことか分からなかった。その日の午後倒れたとのことだった。高木議員も遠藤さんも、遠藤さんの奥様も私も、みな元は民社党本部書記局の同僚である。奥さんから高木議員へ、そして私へと連絡が来たのであった。
 あのとき、話をしておくべきだった。ひょっとしたら何か身体の不調に気付いたかも知れない。会場は東京医科歯科大病院の向かいである。直ぐに診てもらえば何とかなったのではないかと、悔やんでも悔やみきれない思いだ。
 遠藤さんと私は民社党本部で解党まで十五年程共に奉職した。彼は民社党のブレーンの一人でもあった高橋正則先生の教え子で学生時代からアルバイトで党本部に来ており、広報畑で二十代の頃から非凡な才能を発揮してきた。また、単に能力があるだけでなく志と明確な国体観のある男だった。彼が編集長を務めた当時の民社党の月刊誌「かくしん」はその質において他党の月刊誌に追随を許さないものだったと確信している。民社党は一九八〇年代後半から選挙で負け続け、さらに社会党ブームや新党ブームに翻弄されていったが、遠藤さんはそれらに批判的で、常に民社党のあるべき道を考えていた。もしそれを党として貫き通すことができていたら、今の政界は全く違った形になっていたかも知れない。
 平成六年(一九九四)民社党は解党し、新進党に合流した。遠藤さんと私は共に新進党に行かなかった。二人で話し合ってそうしたわけではないが、自らの信ずるところに向かって進みたいという思いは一緒だった。その後彼は政治評論などに秀でた才能を発揮し、注目を集めていった。
 遠藤さんと私は後に同じ拓殖大学に奉職することになる。彼は大学院地方政治行政研究科の教授として、また井尻千男先生の後を継いで日本文化研究所の所長として、八面六臂の活躍をしていた。
 もう一つ彼と私で共通していたのがこの国基研である。遠藤さんは設立当初からの中心的メンバーで、理事兼企画委員を務めてきた。櫻井理事長はじめ他の役員からの信頼も厚く、さらに活躍が期待されていた。産経新聞「正論」執筆陣の一人として健筆を振るい、平成二十一年(二〇〇九)には「正論新風賞」も受賞した。政治学者としても最後の単著となった『戦後政治史論 窯変する保守政治1945―1952』など多くの業績を残した。この本が出たとき、続きを期待しているとメールを送ったら、「もちろん、この続篇を書き続けます。民社党解党まで書かなければ死んでも死にきれぬ思ひです」という返信が送られてきた。
 昭和三十三年生まれ、私より二歳下である。これから三十年位活躍してもらうことは、本人のためというより日本のために必要であった。今、彼の代わりになる人間がいるのかと考えたとき、天を恨む思いすらこみ上げてくる。
 遺稿のようになってしまったのが一月三日の産経新聞「正論」欄だった。彼は「年頭にあたり『観念的戦後』に風穴開けた参拝」と題して寄稿し、その最後を「首相の靖国神社参拝は観念化した『戦後』から脱却するための大きな一歩といえる」と結んだ。せめて安倍総理の靖国参拝を見届けたことがはなむけと言えるのだろうか。
 葬儀は近親者のみで行われた。この原稿を書いている時点で奥様にも連絡をしていない。負担をかけるだけだろうし、自分自身が混乱していて何を言って良いのか分からないのだ。
 一月七日、私は自衛隊の制服姿で初詣の喧噪の絶えた靖国神社に参拝した。それが唯一思いついた彼に対する弔意の表し方だった。(一月八日記す)