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2022.09.20 (火) 印刷する

核先制使用宣言は金正恩の恐怖の産物 西岡力(モラロジー道徳教育財団教授)

北朝鮮は9月8日、最高人民会議(国会)で核兵器使用条件などを定める「核戦力政策に関する法令」(以下「核法令」)を採択し、党総書記の金正恩が「核放棄のための交渉はあり得ない」「核はわれわれの国威であり、国体であり、共和国の絶対的な力である」とする施政方針演説を行った。法令と演説を詳細に分析すると、金正恩政権の置かれた苦境がよく分かる。

金正恩は今、二つのことに恐怖を感じている。第一に、韓国の尹錫悦政権成立後に急速に正常化した米韓軍事同盟への恐怖だ。第二が、制裁と国境封鎖で生活難に苦しむ人民の不満が高まっていることへの恐怖だ。

米韓軍事同盟への恐怖

まず、第一について見ていこう。核法令では、核の先制使用もあり得ることを明文化する五つの「核使用条件」が定められた。

相手が核攻撃をしてこなくても、核以外の大量殺りく兵器による攻撃を受けるか、それが差し迫ったと判断される場合、あるいは「国家指導部と国家核戦力指揮機構」や「国家の重要戦略的対象」が核以外の軍事攻撃を受けるか、それが差し迫ったと判断される場合、あるいは有事に作戦上不可欠な場合、に核を使うと明言した。「国家指導部と国家核戦力指揮機構」とは、金正恩とその側近を指す。それが通常兵力で攻撃されたら核で反撃すると脅しているのだ。

注目すべきは、攻撃が「差し迫ったと判断される場合」だ。すなわち金正恩が差し迫ったと判断すれば、実際には差し迫っていなくても核攻撃をすることさえあり得る。

その上、金正恩が攻撃されたら、「事前に決まった作戦方針に従って、挑発の源と指揮部をはじめとする敵対勢力を壊滅させるための核打撃が自動的に、即時に断行される」と自動核報復を明記した。

このような、先制核攻撃宣言の背景には金正恩の恐れがある。尹錫悦政権成立後、急速に韓国の対北朝鮮防衛体制整備と米韓軍事同盟の正常化が進んだ。

韓国大統領の尹錫悦は7月6日、全軍主要指揮官会議で「北朝鮮が挑発すれば迅速かつ断固として対応せよ」と命じた。

米韓軍事演習も復活した。文在寅政権下で4年間行われなかった大規模な兵力による野外演習が8月22日から9月2日に実施された。

その上、朴槿恵政権時代に準備され、文在寅政権で中断していた金正恩暗殺作戦(いわゆる斬首作戦)の米韓合同演習が米本土で実施された。6月14日から7月9日までカリフォルニア州フォートアーウィン基地内の「ナショナル訓練センター」(NTC)で米韓特殊部隊による共同訓練が実施された。韓国からは初めて陸軍特殊戦司令部所属将兵70人が参加し、米陸軍第1特戦団将兵などと実戦演習を行った。北朝鮮は斬首作戦に強い恐れを抱いている。

また、ウクライナ侵略戦争でロシア陸軍の弱さを見て、金正恩は同じロシア製兵器で武装している北朝鮮陸軍が予想外に弱いことを知った。米軍さえ撤退させれば奇襲攻撃で韓国を占領できると考えてきたのだが、韓国軍だけと戦っても現在の北朝鮮軍は敗退する可能性が高いという不都合な真実に直面したのだ。そこで、自分の命を守ることを最優先とし、自分に危害を加えるならば核で反撃するというメッセージを送ったのだ。

人民の不満への恐怖

次に金正恩が感じている二つ目の恐怖、すなわち制裁と国境封鎖で生活難に苦しむ人民の不満が高まっていることへの恐怖について見ておこう。金正恩の施政方針演説を読むとそれがよく分かる。金正恩は演説前半で、核廃棄交渉などあり得ない、制裁は効いていない、時間は自分たちの味方だ、と次のように強がりを言い続ける。

米国は、史上最大の制裁・封鎖によってわれわれに困難な環境をもたらし、力が尽き果てるようにし、われわれをして国家の安定的発展環境に対する不信と脅威を感じざるを得なくして、われわれに核を選択した代価について考えさせ、党と政府に対する人民の不満を誘発、惹起してわれわれが自ら核を捨てざるを得なくしようと企んでいます。

とんでもない!

これは敵の誤判であり、誤算です。

百日、千日、十年、百年かけて制裁を加えてみよと言いましょう。

ここで「人民の不満」という言葉を金正恩が自ら使っている。実はそれを恐れているのだ。この少し後にこう言っている。(傍線西岡)

実際、帝国主義連合勢力と単独で立ち向かって、最も野蛮かつ横暴な制裁圧殺策動を粉砕するとともに、共和国核武力を建設し、戦闘態勢を完成するということは、耐え難い苦痛と国難を甘受し、乗り越えなければならない生死を分かつ決戦でした。

それだからこそ愛するわが人民と子どもが困苦欠乏に耐え、貴重なわれわれの全ての家庭が厳しい生活難を克服しなければなりませんでした。

核開発を強行したため、「人民と子どもが困苦欠乏」したこと、「全ての家庭が厳しい生活難」に見舞われたことを金正恩が認めている。

実は北朝鮮では、今年に入って頻繁に行われたミサイル発射に対して、困窮する人民から「核ミサイルが飯を食わしてくれるのか」という不満の声が噴出していた。そこで1月から4月まで合計12回のミサイル発射は国営メディアが大きく報じたが、5月以降、9月中旬までの6回の発射は報じていない。それだけ人民の不満を意識しているのだ。

金正恩は施政方針演説後半で、一転して人民の生活向上に努力せよと繰り返し党と政府に命令する。

全ての政権機関は当該地域で尊厳ある共和国政権を代表し、人民の生活に責任を持っているという使命感を銘記し、その本分を忠実に遂行しなければなりません。

党と政府の人民的施策が全ての子どもや世帯に等しく行き届くように献身的に努力し、飲料水や焚き物をはじめ人民の生活上の問題に常に関心を払い、いささかの不便や苦衷も感じないように前もって綿密な対策を立てなければなりません。

わが党と政府の経済政策はいずれも、人民の物質経済的需要を円滑に満たし、人民に裕福でうらやむことのない生活を享受させるためのものです。

人民生活で基礎的な問題さえもまともに解決できず、引き続き人民に苦労させるようでは、そのような経済活動は何の必要もありません。

党政府幹部は陰口

ただし、人民生活改善のための具体的政策は一切出てこない。幹部らが科学的な対策を立て指導せよ、幹部らが不退転の思想的覚悟と決心を持って奮闘すべきだ、と精神論を語るのみだ。党と政府の経済担当幹部らは「何をするにも資材がない、エネルギーがない、肥料がない、それらを買う外貨がない、無い無い尽くしで手の打ちようがない」と陰で不満をこぼしながら、政治犯になることを恐れて誰もそれを金正恩に直言できない。

つまり、金正恩も演説で事実上、制裁の結果、経済は困窮して人民の不満が高まっていることを認めているのだ。岸田政権はこの枠組みを崩すことなく、全拉致被害者の即時一括帰国を迫り続けるべきだ。(文中敬称略)