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国基研ろんだん

2022.12.05 (月) 印刷する

毛沢東に遠く及ばない習近平独裁体制 北村稔(立命館大学名誉教授)

2022年10月の中国共産党第20回全国代表大会(党大会)により、党・軍・国家の三権を掌握する習近平を頂点に、その周りを側近で固めた独裁体制が完成した。毛沢東独裁への反省で生まれた集団指導体制の終焉は、中国に何をもたらすのか。

混乱を勝ち抜いた毛沢東

毛沢東は1945年の中国共産党第7回大会(延安)で党と軍の支配を確立し、党規約に「毛沢東思想を指導思想とする」と明記された。1954年には新設の国家主席に就任する。

中華人民共和国の成立後、毛沢東の采配で急進的社会主義化が推進されたが、市場経済と個人営業の廃止による物流停滞、拙速な農業共同化への国民の不満が高まった。

1956年2月のソ連共産党第20回大会で第一書記のフルシチョフが1953年に死去した独裁者スターリンを批判すると、中国にも毛沢東独裁に反対する動きが出現する。同年9月の中国共産党第8回全国代表大会では、鄧小平が中央書記処を統括する新設の総書記に就任した。党規約からは毛沢東思想が削除され、毛沢東に退任を促す「中央委員会名誉主席を設置できる」との規定が書き加えられた(第37条)。

これに対し毛沢東は、言論の自由化を一旦は提唱して急進的な社会主義化への批判を容認したが、数カ月後には弾圧に転じ(1957年の反右派闘争)、1958年の「大躍進政策」により国民総動員の人海戦術で農業と工業の飛躍的発展を目論んだ。しかし大失敗に終わり、1959年には劉少奇が国家主席に就任する。このあと1960年代前半の中国社会は、劉少奇、鄧小平の経済調整政策により小康を得た。

急進的な社会主義化に固執する軍事委員会主席の毛沢東は、1966年に国防部長(国防相)の林彪の武力で北京を戒厳下に置き、非正規の中央委員会全体会議(第8期11中全会)を強行して「文化大革命」を開始した。劉少奇、鄧小平に繋がる多くの共産党幹部が、社会主義社会に出現した「特権を持つブルジョアジー」と断罪され、紅衛兵による暴力的な糾弾に曝された。中国社会は大混乱に陥り、生産活動は停滞したが、毛沢東の権威は絶大で1976年の死まで独裁体制は揺るがなかった。

資質に疑問の習近平

鄧小平は1978年に改革開放政策を宣言し、生産力の向上を目指す「中国の特色ある社会主義」を旗印に、国家の管理下で資本主義の生産様式を導入することを決定した。2013年に出現した習近平体制も、この延長上に存在する。

党規約が掲げる歴代指導者の政治理念は年代順に、毛沢東思想、鄧小平理論、三つの代表(江沢民)、科学的発展観(胡錦濤)、習近平新時代の中国の特色ある社会主義思想、である。江沢民と胡錦濤の政治理念に個人名は付かないが、習近平の場合は名前を冠され、しかも毛沢東思想と同じく「思想」と位置づけられる。しかし共産党第20回全国代表大会で採択された党規約には「習近平思想を指導思想とする」との表現は見当たらず、毛沢東思想よりは格下である。

党官僚の腐敗撲滅という陳腐な方法で構築された習近平独裁体制は、戦争と革命を通じて確立された毛沢東独裁体制に比べるべくもない。官僚の腐敗は過去から現在まで続く中国社会の常態であり、共産党幹部が資金を携えて海外に逃亡する事件が公に報じられ、江沢民時代、胡錦濤時代、習近平時代を通じ基本的に変化していない。

『矛盾論』や『実践論』を発表してマルクス主義哲学に新機軸を打ち出した毛沢東と、『中国の夢』などというロマンティックな政策を弄ぶ習近平には、独裁者の資質においても各段の相違が存在する。

権威主義が中国共産党政権の本質

ゼロコロナ政策に若者が抗議の声を上げ、世界戦略の「一帯一路」も低迷し、習近平独裁体制は揺るぎ始めた。しかし中国近代史が示す通り、中華人民共和国は伝統的な封建王朝体制とロシアから直輸入したマルクス・レーニン主義の融合体であり、中国共産党政権が続く限り、中国に民主化の大きな流れが生まれることはなく、形を変えた権威主義体制が繰り返し出現するであろう。(了)