下記は、2011年4月23日の「日独友好」国会決議を強く批判した下村博文衆院議員(現文科相)のブログ記事である。当時自民党は野党で、総裁は谷垣禎一氏、幹事長は石原伸晃氏だった。まず下村氏の文を引いておく。
(引用開始)「日独友好決議に本会議退席する」
本会議直前の代議士会において、私は「日独交流150周年」に当たり「日独友好関係の増進に関する決議」について、自民党は賛成するとなっているが、採決時退席するよう呼びかけた。
理由は、①文案は「両国は第一次世界大戦で敵対したものの、先の大戦においては、1940年に日独伊三国同盟を結び同盟国となった。その後、各国と戦争状態に入り多大な迷惑をかけるに至り、両国も多くの犠牲を払った」となっている。
しかし、ドイツの戦争は1939年ポーランド侵攻に始まり、歴史事実を誤認して、同盟を結んだ後、世界に戦争を行ったという文案は国会の見識が問われる。
理由の②は、ドイツとは開戦時期も経緯も異なるのに、一方的に両国が「各国と戦争状態に入り多大な迷惑をかけるに至った」と同一に論じれば、特にユダヤ人残滅を企画して計画的に虐殺を実施したナチスドイツのホロコーストを含むドイツの歴史と我が国の歴史を同一視する事になり、断じて容認できない。
結果的には石原伸晃幹事長が「党議拘束を外す」と決定したため、約40人が退席、議場に残った議員の多くも起立採決に座ったまま反対した。
そもそも事前に党の部会などで議論がなく、この決議案の内容を事前に知っていた議員もほとんどいない。こんなことで容易に採決に応じていること事態、国会議員としての見識も問われる。
決議は、民主、公明両党や自民党の一部など賛成多数で可決したが、歴史に汚点を残した。ドイツに対しても友好決議とはならなかった。(引用終わり)
習近平国家主席以下、中国共産党政権が、日本とナチスを同一視した上、ドイツと違い日本は反省していない等の国際宣伝に注力する中、他ならぬわが国の「国権の最高機関」が、誤認を助長するような決議をしていたわけである。
下村氏の指摘に付け加えれば、1939年のポーランド侵攻は、ドイツ単独ではなく、独ソ秘密協定に基づき、ドイツとソ連が東西から侵攻する形で行われた。つまり盟約を結んで第二次大戦の口火を切ったのはヒトラー・スターリン連合だった。その後ドイツがソ連にも侵攻したため、ソ連は「連合国側」の一員として終戦を迎えただけである。
関税引き上げ競争の火蓋を切り、不況を国際的に深刻化させたのは、アメリカのスムート・ホーレー法(1930年)だった。これに拒否権を発動しなかったフーバー大統領の政治責任を問う声は、当時から米国内でも強かった。他にも、精査すべき歴史上の複雑な論点はいくつもある。
「ドイツに対しても友好決議とはならなかった」という下村氏の結びの言葉も重要だ。ナチス時代の記憶を喚起する動きに、当然ながら、ドイツ側は敏感に反応する。今年3月、習近平氏が訪独に当たり、ホロコースト記念施設訪問を申し入れたが、ドイツ政府は謝絶した。人権抑圧を続ける一党独裁体制のトップが、虐殺者の碑の前で頭を垂れ、ドイツにとっては友好国である日本を非難するというパフォーマンスは、余りにシニカルなホロコーストの政治利用だからである。
アフリカの独裁国家の首脳が、訪米に際し、かつての黒人奴隷の慰霊施設を訪れようとした場合なども、米側は通常、不快感を示す。現在進行形の悪の追及を牽制する歴史カードの趣が強いからだ。
日本の政治家だけが、歴史の政治利用に鈍感、無防備であるなら、国際情報戦に敗北必至だろう。