公益財団法人 国家基本問題研究所
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国基研ろんだん

2015.02.12 (木) 印刷する

「憲法」の制約 荒木和博(拓殖大学海外事情研究所教授)

 拉致被害者救出に自衛隊を、という議論をすると必ずと言って良いほど「憲法の制約が」という、言い訳にもならない言い訳が出てくる。安倍総理自身、昨年3月6日、参議院予算委員会で、かつて秘書官であった井上義行議員(維新)の質問に対する答弁でも次のように語っている(要旨)。

「北朝鮮において内乱的状況が発生した場合において派遣先国の同意が得られない場合に部隊を派遣して自国民を救出することは国際法上一定の条件を満たす場合には認められる場合があると考えられる。しかしながらわが国の場合は憲法第9条の制約があるため御指摘のような事態、すなわちわが国に対する武力攻撃が発生しているわけではない北朝鮮の内乱のような場合には、一般的にはただちに自衛権発動の要件にあたるとは言えない。自衛隊の特殊部隊を救出のために派遣するといった対応を取るのは憲法上難しい」

しかし、憲法をどう読んだところで「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」し、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」のであれば自衛隊はあってはならない存在、憲法違反であるはずだ。

自衛官には「服務の宣誓」というのがある。そこには「日本国憲法及び法令を遵守し」と書かれている。憲法を遵守したら「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」のだから自分の存在を否定することになるという矛盾はまさに戦後体制の象徴とも言えるだろう。

自衛官服装規定には第6条に「自衛官は、この訓令の定めるところに従い、常時制服等を着用しなければならない」という規定がある。常備自衛官は普段から制服を着用するのが原則なのである(もちろん、その後に「ただし、次の各号に掲げる場合には、制服等を着用しないことができる」とあって、実際にはそうではないが)。予備自衛官の友人である犬伏秀一・元大田区議が「日本中の職業の中で制服で酒を飲めるのは自衛官だけだ」と言っていたが、それはつまり、軍人が本来四六時中命を国に捧げている特別な存在であり、役人とは異なることを意味するのである。だからこそ外国では軍人が尊敬されるのだ。実際、前述の「服務の宣誓」は「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います」で終わる。要は死ぬことを覚悟するということだ。

そして国家の命令に応じて自分が死ぬかも知れないし、敵を殺すかも知れないからこそ戦闘機もイージス艦も戦車も持っているのである。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」したならそんなものは必要ないはずだし、実際かつて第1野党だった日本社会党の石橋政嗣委員長は「非武装中立論」まで主張していた。私自身が予備自衛官として毎年1回は必ず行う射撃の訓練も猪や鹿を撃つためのものではない。これが憲法違反でないなら何が憲法違反だというのか。

しかし、今国民に「自衛隊は憲法違反です。憲法を守るために自衛隊を解散します」と言ったらどうなるかは想像がつくだろう。憲法以前に軍隊が必要なことは国民の方が認識している。「警察予備隊」という、旧内務官僚の軍に対する怨念の塊のような呼び名で始まった戦後の軍事組織は、根本的な矛盾を解消できないままに今日に至っている。

ISILの人質殺害事件の関係閣僚会議に中谷防衛大臣は参加し、コメントもした。しかし拉致問題では防衛大臣は全閣僚の入る対策本部の一員でしかなく、大臣として拉致問題について積極的に発言したのを聞いた記憶はない(これは中谷大臣だけでなく歴代大臣すべて同様と言える)。

西村眞悟・前衆議院議員は自衛隊を「令外の官」と言ったが、まさに自衛隊は現行「憲法」の枠外に存在している組織である。もともと日本を二度と自分たちに刃向かわせないための手枷足枷として作った憲法と、国家を護るための軍隊に整合性のあるはずはないのである。憲法改正の議論は別として、憲法というのがそもそもその程度のものであるという認識は必要なのではないか。少なくとも、拉致された国民を救出するという当たり前のことの方が言葉の遊びや誤魔化しよりはるかに重要であることは明らかなのだから。