たった2秒の犯行で金正男は殺害された。殺害の瞬間を捉えた防犯ビデオの映像で犯行の様子が全世界に報じられた。彼はなぜ、このタイミングで殺されなければならなかったのか。
北朝鮮の犯行であることは疑うべくもない。金正恩が5年前、金正男暗殺指令を出していたことは、韓国で拘束された北朝鮮工作員の証言で明らかになっている。金正恩に「正男を除去しなければならない」と異母兄を疎ましく思う怨念があったのは疑う余地がない。それは出自からくる嫉妬であり、能力からの懼れであり、背後の中国がいつか自分を排除して金正男を首班に立てる親中政権を作るのではという怯えである。
留学などを経て欧州で育った金正男は、帰国後の1990年代に「北朝鮮はこのままでは生き残れない」と改革開放論者になった。しかし2001年のディズニーランド事件で金正日の逆鱗に触れ、後継者争いから外された。事件は正男を追い落とそうとした金正恩の母、高英姫とその支持勢力による陰謀であったとされている。以後、正男は中国の保護の下で流浪の海外生活に身を置くが、そのなかで近づいてくる日本などの海外メディアを排除しなかった。ときに人間的な感情を率直に見せ、その存在をさらすことで身を守ろうとした側面もあっただろう。そして金正日死去後は、「三代世襲はおかしい」との体制批判を口にするようになった。正男暗殺の動きが具体化したのはこの時期からだ。韓国・国家情報院によると2012年、正男は北朝鮮工作員に北京で襲われたが、中国公安がこれを阻止した。
●なぜ5年かかったのか
では、金正恩の暗殺計画は2012年から狙って5年間もかかってようやく実行できたということなのか?
暗殺は2009年に工作機関を統合した軍偵察総局が担当、外国人女性2人を使って決行したとみられるが、元北朝鮮工作員らは「5年もかけたとは思えない」と述べる。金正日が存命中は正男の行動範囲は広かった。欧州にも現れ、父金正日の治療のためフランス人医師を手配したこともあった。しかし、金正日が死去し、2013年末、叔父、張成沢が国家転覆陰謀行為で粛清された以降、正男の行動範囲は縮小、シンガポール、マレーシアなどアジア数カ国に限られるようになった。今回の事件で、北朝鮮工作機関がいかに正男の行動を綿密に把握していたかが証明されている。チャンスは何度もあったはずである。
叔父、張成沢の処刑は銃殺後に機銃掃射で数百発も撃ち遺体を肉片にするという残忍非道なものだった。処刑後、「なにも殺さなくてもいいではないか」と話していたという正男の傷心、落胆ぶりは深かったという。中国の改革開放を支持し、中国首脳部と太いパイプを持つ張成沢は、中国に逃れたあとの金正男を経済的にも精神的にも援助し続けてきた人物で、後見人だった。正男は叔父、張成沢とのつながりから、自分に向けられるであろう金正恩の憎悪も感じていただろう。しかし3年余は何事もなかった。そして暗殺はあっけない方法で実行されたのだ。
なぜ、いまだったのか、という問いに答える具体的なエビデンスはない。だが、いくつかの兆候からの分析は可能だ。
●レジームチェンジに危機感
ひとつの兆候は、米国、中国のポスト金正恩に向けた水面下の情報収集が2015年頃から本格化していることである。北朝鮮から韓国などに脱北した政権中枢に極めて近かった人物に、中国共産党、あるいは米国政府筋がひんぱんに接触してはポスト金正恩で北朝鮮に何が起きるかのシミュレーションを行っている。金正男がわざわざマレーシアに出てきた目的は、中国以外の第三国との接触だったのかもしれない。金正恩が最優先しているのは体制の維持、生き残りである。米中にレジームチェンジの企図があり、正男がそれに加担している兆候があれば即時、行動を起こすだろう。ただ、正男の警備が厳重な中国での暗殺は困難だ。第三国との接触か、中国の企図か、いずれにしても殺害のチャンスは正男が中国を出国したときである。
習近平は金正恩を全く信用していない。習近平の不信の最たるものは金正恩の核兵器開発にある。北朝鮮は2016年1月、9月の第4、第5の核実験を中国に事前通告しなかった。2015年9月の中国の「抗日戦勝70年」に習近平は韓国の朴槿恵大統領を招聘した。北朝鮮からは崔龍海朝鮮労働党書記が参加したが、中国は序列40位に座らせる冷遇ぶりだった。金正恩はこのときの訪中団に「中国はわれわれをどう扱うのか調査しろ」と命じていたが、「われわれを倒し、改革開放政権を作ろうとしている」との報告が上がったとされている。
●中国を甘く見る金正恩
一方、もうひとつは北朝鮮内部に異変があった可能性である。暗殺の2日後、北朝鮮の首都平壌で金正日の生誕75年慶祝中央報告大会が開かれた。この大会で金永南最高人民会議常任委員長は、党、国家(政府)、軍などの最高幹部を前にこう述べたのだ。「金総書記の指導の継承問題を完璧に解決したのは千年万年の未来とともに末永く輝く最も尊い業績である」。
もちろん「継承問題の解決」への言及は今回が初めてではない。だが、「完璧に解決」とまで言って強調しなければならなかった理由は何なのか。
北朝鮮では最近も金正恩の側近、国家安全保衛部の責任者、金元弘部長を解任するなどの処分や粛清が続いている。一方で党や政府、軍幹部クラスの脱北や亡命が加速、その理由は恐怖政治への絶望感と将来への失望感なのである。不穏な動きを封じ、唯一の道が金正恩体制であることを内部に知らしめるには、「異母兄の暗殺」という強烈な形が必要だと考えたのかもしれない。
実行犯にアジアの女性を仕立てたことで、金正男の殺害が金正恩の指令による暗殺であったと立証することは難しくなるだろう。しかし金正男をこの世から消したことで自らの地位を保全したと金正恩が確信するのなら、それはあまりに未熟な独裁者ということになる。いま、中国は沈黙を守っている。しかし、2度にわたってメンツを潰された中国が、北朝鮮の将来に向け、軽挙妄動に走りがちな金正恩体制を守るということはないだろう。金正恩は巨象・中国の恐ろしさを甘くみていると思われる。