愛知県で3年に1度開催される「あいちトリエンナーレ2019」が14日、名古屋で75日間の会期を終へて閉幕した。現代アートの祭典だとのことであるが、その一環の企画展として「表現の不自由展・その後」といふものが開催されたが、「放火を示唆する内容のファクスやテロ予告のメールを含む抗議が県などに殺到し、通常業務への支障や観覧者の安全確保などを理由に開始から3日で中止に追い込まれた」(朝日新聞10月9日付朝刊)。
主催者は、中止が表現の自由に対する挑戦であるとして、閉幕を間近にした8日、再開した。私はこの再開の判断に反対である。
この「不自由展」には、愛知県ばかりではなく、国や名古屋市からの補助金が出されることになつてゐたが、問題が発生してから国と名古屋市は、補助金を出さないと決めたといふ。このことも「左翼」から批判されてゐるが、そもそも補助金の不交付が表現の自由を侵害するものかどうか考えへてみたい。
●表現の自由は無制限ではない
私は、この企画展そのものを見てないので、展示された作品が芸術作品であるのか、単なる政治的プロパガンダであるのかについては立ち入らない。
たゞ 芸術作品かどうかは、かなりの程度、主観的なものであるし、政治的プロパガンダであつても表現の自由があるし、政治的プロパガンダであるからこそ表現の自由の保護の必要性が高いともいへる。評論家の門田隆将氏は実際に展示作品を見て論じてゐるので、彼の論評(月刊『Hanada』10月号、産経新聞9月1日付朝刊)を参照してほしい。
新聞報道などで、問題となつてゐるのは、主として2点である。昭和天皇のコラージュ写真と慰安婦像だ。あと、特攻隊員の若者を愚弄する作品もあるさうだが、これも問題であらう。
表現の自由は、人格権の中でも非常に重要な権利として明治憲法にも現行憲法にも規定がある。近年は人格権としてばかりではなく、民主政治体制の維持にとつて不可欠の権利であるといふ側面が重視されてきた。
しかし、いづれの論に立つても表現の自由は無制限ではない。よく問題になるのは、名誉毀損やプライバシーとの関係である。またポルノなど公序良俗との関係でも問題となる。
今回の「不自由展」中止について、中止を当然だと主張する者が、これは表現の自由の保護の範囲外であると主張するのに対し、中止を批判する論者たちは、表現の自由との限界についてあまり触れない。これは公平な論評とは言へない。
たとへば、行政は、作品の良し悪しで補助金を出すべきではなく、主催者が芸術作品と決めたからそれに従ふべきだといふ議論がある。大筋ではさうであるだらうが、限界はある。作品についてはまつたく問題にしてはいけないというのでは、名誉棄損とかプライバシーとか、ポルノとかはどうなるのか。論者がそれらの関係についてあまり言及しないのはなぜか。
●公金の補助ですべきものか
昭和天皇のコラージュ写真については、昭和61年、富山県立美術館が購入し、この作品が掲載されてゐる図録を製作し、展示した。多くの富山県民を憤激させ、県議会でも問題となつた。県の方針に抗議した民間人が、図録の掲載頁を破いたといふ事件もあつた。
私は、この刑事事件を担当したので、この作品についてはよく知つてゐる。これは昭和天皇の肖像と、どくろとか女性の裸体とか、刺青の写真を組み合せたもので、醜悪としかいへない。これは単なる天皇批判ではない。我が国の象徴であり、国民統合の象徴であり元首である天皇に対する悪質な侮辱である。公金の補助を受けて展示するべきものではない。
次に慰安婦像である。これは単なる女性の座像ではない。日本軍が朝鮮人女性約20万人を挺身隊の名で強制連行し、性奴隷として日本軍兵士に強制的に奉仕させたとする、その象徴だというのである。
慰安婦が存在したことは事実であるが、あとはすべて虚偽である。にもかかはらず、日本国は、何十億円といふ見舞金を支払はされ、謝罪を要求され、それでも謝り方が足りないと罵られてゐる。慰安婦像は河村たかし名古屋市長の言ふやうに、国民の憤激を引き起こす作品なのである。少なくとも公金の補助を受けて展示するべきものではない。
私は、天皇批判の言論を許さないと言つてゐるのではない。あのやうな絵画で天皇を愚弄することは表現の自由の埒外であると言つてゐるのである。今回のやうな企画展について、中止を批判する者は、もう少し深い議論をする必要があるやうに思ふ。