8月6日、米国のトランプ大統領はインドからの輸入品に25%の追加関税を課すとの大統領令に署名した。ロシアから原油を購入していることに対するこの制裁関税は8月27日に発動する。これは7月31日の大統領令に明記したインドに対する相互関税25%とは別に課すもので、若干の例外品目はあるとはいえ、インドからの輸入品に対する関税は合計で50%になる。この関税率はブラジルと並んで世界で最も高い。インド外務省の報道官は「こうした行為が不公正、不当、不合理だと改めて表明する」という強い声明を発表した。
トランプ関税にインド硬化
今年4月にトランプ大統領がインドに対して26%の相互関税賦課を発表して以来、インドの交渉団は5回米国を訪れて交渉してきた。日本と並んで交渉をいち早く始めたインドの姿勢は当初おとなしいものであった。
雰囲気がやや変わったのは、7月に米国の鉄鋼・アルミニウム関税に対してインドが世界貿易機関(WTO)に提訴した頃であった。それでもインドは米国からの輸入品の4割を占める品目の関税をゼロとするという大きな妥協を見せて、交渉はまとまると大方が見ていた。しかし、米国側が農業および乳製品市場の開放を強硬に求めてきたことで、交渉は最終段階で暗礁に乗り上げた。人口の4割が農業に従事するインドでは農産物輸入は簡単に譲れない問題で、とりわけ乳製品の輸入は政治的にきわめてセンシティブである。
自動車部品の対米輸出に関しても交渉が難航した。完成車の対米輸出は少ないものの、自動車部品の対米輸出はインドにとって重要であり、インド政府は米国のこの関税措置がインドの自動車・自動車部品産業の輸出に29億ドルの影響を及ぼすとしている。後発薬の対米輸出についても、関税の不透明さが影を落としている。
7月30日、トランプ大統領は8月1日からインドからの輸入品に25%の関税を課すとSNSで発表した。さらにトランプ大統領はインドがロシアから石油と武器を購入していることに追加のペナルティーを科すと言明した。インドはこれにひるむことなくロシアとの貿易を継続することを明らかにする声明を発表した。8月6日のトランプ大統領の追加関税発表はこれに続くものであった。
対米より重要な対露関係
インドがこのように米国に対して強気に出てきたのは、それなりの理由はあった。第一に、米国が「インド太平洋」戦略においてインドを重視せざるを得ないと楽観視していたこと、第二にインドの国内総生産(GDP)に占める輸出の比率が2割程度と、他のアジア諸国より低いことであった。
第三に、現在のインドにとっては米国よりロシアの方が重要で、米国との交渉を優先して対露外交を犠牲にすることはインドにとってマイナスとなることであった。ロシアからの安価な原油の供給は、インド国内の物価高騰を抑える効果が大きい。インドは第2次トランプ政権発足後、米国からの天然ガスや原油の輸入を大きく増やしているが、価格面でロシア産のエネルギーの方が魅力的である。ロシアは中印問題では中立的な立場を取っていて、このため対露関係の維持はインドにとって死活問題でもあった。つまるところ対露関係はインドにとってどうしても譲れないものであり、インドがいち早く譲歩した不法移民問題などとは次元が違う。
第四に、トランプ大統領が他国との交渉で妥協に追い込まれていることから、インドとして甘く見た可能性もある。
米の怒り買った不屈の姿勢
運も悪かった。中国との貿易交渉がまとまらず、ロシアからはウクライナ停戦合意を引き出せないトランプ大統領の怒りの矛先が、ロシアの原油の主な輸出先であるインドに向かったのは不幸だった。
トランプ大統領にとって、インドがロシアからの原油や武器を輸入していることは貿易交渉における取引材料であったかもしれないが、インドの妥協しない姿勢は、自らに服従しないことは絶対許さないトランプ大統領の最も嫌うところであった。
つい最近までモディ首相の「友人」であったはずのトランプ大統領は、SNSや発言で「インドは汚い。経済は死んでいる。インドの関税障壁は不快で、インドの人々はウクライナ人の苦境に無関心」といったインド批判を連日展開した。プライドの高いインドにとってこれは許せない言動だった。
インドはトランプ大統領に真っ向から反論し、ロシアとの貿易を継続することを明らかにするとともに、米国がロシアからウランや化学品を輸入しているとしているといった恐らく事実に基づく反論も展開した。英国、欧州連合(EU)、インドネシア、ベトナム、フィリピンといった国々がトランプ大統領の要求をのんでいる中で、インドの米国に対する立場は毅然としたものであった。
しかし、こうしたインドの姿勢はトランプ大統領の逆鱗に触れることとなり、インドはブラジルと並んで世界で最も高い関税を課せられる結果となった。インドの50%に続くのはラオスとミャンマーの40%、スイスの39%で、インドより製造業の強い韓国や台湾はインドより低い関税措置で済み、メキシコなどには現時点で猶予期間が与えられている。インドが農業部門開放やロシア産の原油購入においてどれだけ譲れないとしても、メキシコのような猶予期間を与えてもらうことくらいはできたかもしれない。
今世紀最悪に落ち込んだ米印関係
想定外の展開に対し、インド政府の動揺も大きかった。8月6日のブルームバーグ通信の記事は「インド政府は、米国が課す関税によって生じかねない経済的打撃を抑えようと慌てている。トランプ大統領による関税の脅しに、インド政府は衝撃を受けると同時に見捨てられたと感じ、どう対応すべきか分からない状態だという。トランプ大統領の厳しい言い回しは、言葉による平手打ちに等しいとインドの当局者は説明した。公の場で行われたこのような非難に対してインド政府にガイドラインはなく、一連の展開が米印関係の緊張を強めたと当局者は語った」と報じている。
ブラマ・チェラニ―政策研究センター教授も指摘するように、それまでの首相より米国を重視していたはずのモディ首相と1期目では「友人」であったはずのトランプ大統領との関係がここまでこじれたことは、誰の目にも想定外だった。昨年6月のモディ首相訪米に当たって当時のバイデン政権はレッドカーペットで厚遇し、ロシアから原油を購入することも黙認していた。わずか1年2カ月前には史上最高の高みに達していた米印関係は、あっという間に今世紀最悪の状態に転落した。
農民を鼓舞するモディ首相
こうした波乱の状況において、インドでもなぜこうなったかをインド政府に問う声も出始めている。第一に、インドとパキスタンの武力衝突の終結をトランプ大統領が「自らの手柄」にしたことをインドが全否定をしたことはトランプ大統領を不機嫌にさせた。モディ首相自身、7月29日には国会で「パキスタンへの越境攻撃に対し、どの国のリーダーからも反対されていない」と明言した。たしかにそれが事実であろうが、ここは黙ってトランプ大統領に花を持たせておけばよかったかもしれない。
8月2日にはウッタルプラデシュ州の集会で、モディ首相が国民に対して国産品の購入を促した。この集会でモディ首相は「世界経済は多くの懸念に直面しており、不安定な雰囲気が漂っている。今は何を購入しようとも基準は一つだけだ。われわれはインド人の汗で作られたものを買う」と述べた。モディ首相は米国の関税には直接言及しなかったし、この発言は自国経済の下支えを図る狙いがあるため十分理解できるが、トランプ大統領には服従しないというメッセージととられたであろう。
政治的な勘に優れたモディ首相は、この危機を「農民の見方」という自身のイメージを確立するチャンスと見たのか、「農民第一」というスローガンがいち早く掲げられた。昨年春の総選挙で議席を減らし、財閥に近すぎるというイメージを払しょくしたいモディ首相にとって、これはチャンスでもある。
追加関税発表の翌日が「緑の革命の父」とされる農学者M・S・スワミナダン博士の生誕100周年に当たったことも、偶然とはいえ出来すぎだった。スワミナダン博士はコメや麦の品種改良によってインドの食糧自給自足を達成した伝説的存在である。記念式典に出席したモディ首相は、「農民と漁民と酪農民は一番大事だ。自分はどれだけ高いコストを払っても彼らを守る」と熱弁を振るった。こうした「農民第一」の発言を繰り返すことで、米国が求める農業分野の開放についての妥協はさらに難しくなった感があるが、モディ首相にとってはトータルで見て勝算ありというところに違いない。(続)
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