8月16日と17日にNHKは「シミュレーション〜昭和16年夏の敗戦〜」を放映した。番組では、日米開戦前に設立された首相直属の「総力戦研究所」が日米戦争に踏み切れば日本必敗というシミュレーション結果を出したのに対し、所長であった飯村穣陸軍中将が所員の自由な議論を阻害し、結論を覆す圧力をかけた人物として描かれている。お決まりの軍人イコール好戦主義者というNHKのイメージ操作によって史実が歪められていることに対し、生前の飯村中将を良く知る者として憤りを感じざるを得ない。
飯村中将の著作を読んだのか
筆者は防衛大学校2年生の昭和43年3月に飯村中将の講話を拝聴した。この時、中将が特に強調しておられたのは「戦争は絶対起こしてはいけない」という信念であった。その後も、茨城県土浦にある御自宅を何回か訪ねて教えを請うたが、当時80歳を超えておられたのに裸電球の下、朝5時から晩9時まで猛勉強しておられた。北大西洋条約機構(NATO)出版のフランス語軍事誌をくまなく読むと共にロシア語も堪能で、元トルコ大使館付武官の経歴を持つ視野の広い軍人であった。
NHKの番組編集責任者は、飯村中将著の『兵術随想』や『続兵術随想』、それに『名将・飯村穣の憂国定見 現代の防衛と政略』(上法快男編)、また外務省から総力戦研究所に出向した桑原鶴の著書『勝味なき戦争』すら読んでいないのではないか。『続兵術随想』の158~159ページには「昭和16年8月、総力戦研究所で、南方に油を取りに行ったらどうなるか、南方に行けば必ず北からソ連が来るという想定で机上演習を実施(略)。東条陸軍大臣は、殆ど毎日机上演習を見に来られた(略)。机上演習の後始末も9月上旬に終わり、私は10月に北満東境の軍司令官に転出(略)。昭和16年12月8日の真珠湾攻撃を私は第五軍司令部であった東安で聞いた。その時、やったなと思って、冷たいものが背筋を流れた」とある。
許せぬフェイクニュースの流布
防大卒業前の昭和45年1月に御自宅を訪れた時には「部下から敬愛されるようになれ。階級の威圧による星(階級)の統率をやってはいけない」と御教示下さり、御自宅を出てから暫くたたずんで足が前に出なかったほどの感銘を受けた。海上自衛隊幹部候補生学校に進んだ同年11月も、陸上自衛隊の防大同期生を誘って御宅にお邪魔したが、誰にも好かれ尊敬される中将のお人柄の素晴らしさを感じた。その中将が部下の自由な議論を阻害する筈はない。
NHKは番組がフィクションであることをテロップで流したと放映責任を回避しようとしているが、内容の大部分が史実であることから、視聴者は「飯村中将は机上演習の結果をねじ曲げようとした頭の硬い軍人」と信じてしまうであろう。昨今のフェイクニュース対策として、公共報道でファクトをチェックすることが挙げられているが、NHKの報道そのものがフェイクニュース源となっているという意味で、その罪は大きい。
リーダーは部下を思い責任を取る
飯村中将の講話を聞いた1カ月後の昭和43年4月に、今度は今村均陸軍大将の講話を聞いた。大将は同年10月に亡くなっているので、最後に近い時期にその謦咳に接した。
筆者が防大教授であった平成24年3月、インドネシア人留学生の卒業研究が優秀論文となり、全学生に向けて発表する機会を設けられた。その際、その留学生が「君たちはこれほど立派な先輩がいたことをなぜ知らないのか」と迫ったことがある。昭和17年3月にジャワ派遣軍司令官、12月からはラバウル方面軍司令官となった今村大将は、占領地の住民はもちろん、敵国であったオランダ人をも極めて寛大に扱って終戦を迎え、独立後のインドネシア政府首脳陣から神のごとく尊敬され思慕された。
今村大将に関して筆者が特に凄いと思うのは戦後、米、オーストラリア、オランダの合意により東京・巣鴨での服役を言い渡されたのにもかかわらず、部下と辛酸を共にすべくパプアニューギニアのマヌス島での服役を自ら申し出て同島で3年5カ月服役、日本に帰還してからも世田谷区の自宅一隅に、戦争の責任を感じて謹慎の茅屋を建て、亡くなるまで三畳の部屋に起居したことである。その部下思いの情といい、身をもって責任を取る態度といい、現在の政治家よりも遥かに高度な倫理観を持っていたと言える。(了)