前半から続く
反米で結束するBRICS
米印関係が大きくこじれてしまったことは、米国の対グローバルサウス外交にも大きな影響を及ぼした。現時点で最も高い関税を課せられているのはインドとブラジルで、この2カ国は、新興国グループである拡大BRICSの反米化を止める要の役割を担っている国である。もう一つの要である南アフリカも、人種問題でトランプ大統領の攻撃を受けている。
トランプ関税の影響を受けてBRICSの結束は早かった。首脳同士が電話会談を行い、最近までその存在を軽視していた筆者もBRICSが反米勢力としてまとまりつつあるのを目の当たりにした。これからBRICSの国々の間で具体的に何が決まるかはともかくとして、トランプ大統領の関税政策はBRICS諸国が結束するエネルギーを与えてしまった。
ウクライナ問題でインドを刺激することは結果的に中国を利するだけだということをバイデン前米政権は政権末期にようやく理解した。しかしトランプ大統領にはそのようなことは頭にない。貿易不均衡ばかりに目を奪われているうちに、これまでの米印間で作られてきた外交資産を台無しにしてしまった。
クアッド協力に影、高笑いの中国
米印関係の悪化を高笑いして見ているのが中国である。年内にインドで開催されることになっている日米豪印による安全保障協力の枠組みクアッドの首脳会談も、先行きが心もとない状況となった。
その一方で、米国との長期対立を想定している中国は、将来の巨大市場インドとの関係安定化を急いでいて、今回の米印関係の悪化を絶好の機会と見ているに違いない。8月6日のトランプ大統領の対印関税発表の直後、中国はこれを批判してインドを擁護するコメントを出した。インドとの国境問題の解決が暗礁に乗り上げている中国が、こうした形でインドをサポートするのは異例のことであった。
7月14日、インドのジャイシャンカル外相は北京を訪問し、中国の王毅共産党政治局員兼外相と会談した。インド外相の訪中は、2020年の国境武力衝突以来初めてであった。8月18日にはインドのアジット・ドバル国家安全保障補佐官も訪中する。8月31日と9月1日に中国の天津で行われる上海協力機構(SCO)首脳会議には、モディ首相が出席する。モディ首相自身の訪中は7年ぶりとなるが、領土問題を棚上げにしたい中国にとっては願ってもないタイミングだ。もちろんインドが国境問題を棚上げにすることはないと中国も分かっていても、インドとの経済面における関係強化を進める良い機会である。
抜け目ないパキスタン
インドの天敵で中国の同盟国パキスタンも抜け目なく動いた。プライドのないパキスタンは、5月の印パ武力衝突の停戦を仲介したと自負するトランプ大統領に最大限の謝辞を述べた。これを受けてトランプ大統領は、パキスタンの国軍トップを米国に招いて食事を振る舞うという異例の厚遇をした。1期目のトランプ政権がアフガニスタン問題で協力に後ろ向きだったパキスタンを厳しく批判していたのとは真逆の展開であった。
パキスタン政府がデジタル金融国家を目指して新設したパキスタン暗号評議会(PCC)がトランプ大統領の次男エリック・トランプ氏の支援する企業ワールド・リバティ・ファイナンシャル(WLF)と提携したことも、両国の関係改善を後押しした。その後、トランプ大統領は「パキスタンと貿易交渉を終えた。大規模な油田を開発するためにパキスタンと協力する。いつかインドに石油を販売することになるかもしれない」と発言した。当てつけのような発言に、インド政府が激怒したであろうことは想像に余りある。
不透明な今後
8月27日に25%の追加関税措置が発動されるまでに何らかの合意を引き出せるか、現時点では未知数である。「我々はインドの国益のためにあらゆる手段を尽くす」と言っているインド政府だけに、何らかの手は打ってくるであろう。米国という最強の国家の力を背景としたトランプ大統領の高圧的な姿勢に対し、タフネゴシエーターで知られるインドがどのような形で妥協案を模索していくのか、世界が注目している。
筆者は2011年8月に発効した日印経済協力協定(EPA)の準備のための委員をしていたことがあるが、日本政府の担当者から「インドは手ごわい交渉相手だと聞いていたが、そうでもなかった」という声をたびたび聞いた。しかし、これはマンモハン・シン首相(当時)が同時期に交渉が進んでいた日印原子力協定を優先し、貿易交渉で妥協したという事情があったためである。今回の米印交渉ではそういった優先課題がなさそうだ。また、台湾の半導体受託生産世界最大手TSMCや日本製鉄のように、米国に巨額の投資を行ってトランプ大統領を喜ばせるような企業もインドには存在しない。
もちろん朝令暮改のトランプ大統領だけに、ある日突然インドを持ち上げる展開になる可能性もゼロではない。米国の起業家イーロン・マスク氏やウクライナのゼレンスキー大統領は、トランプ大統領との口論の後、すぐに謝罪を強いられた。しかし自らの企業や国の存続がかかっている彼らと違い、インドは米国への依存度が高くないし、何よりも「農民第一」を掲げたモディ首相にとって、米国が求める農業分野の市場開放に応じることはこれまで以上に難しくなった。インドは米国市場を犠牲にして、それに代わる輸出先を探す方向で動いていく方向に行かざるを得ないという見方も多い。
米の信頼失墜、露の重要性向上
交渉の行方は分からないとしても、一つ確実に言えることはインドにおいて米国の信頼が失墜したことだ。信頼を得るのには時間がかかるが失うのは一瞬である。インドに関心の薄いトランプ大統領は場当たり的に侮辱的発言をしたのかもしれないが、プライドの高いインドはこのことを忘れないだろう。インドにおける米国のイメージは対中関係の悪化とともに改善してきたが、また「信頼できない国」として振り出しに戻った。
一方でインドがその重要性を改めて認識しているのはロシアである。1か月前に計画されていたとはいえ、ドバル国家安全保障補佐官がロシアを訪問したのはトランプ大統領の関税発表の翌日であったことは偶然の賜物であった。モディ首相もプーチン大統領と緊急の電話会談を行い、年内にインドにプーチン大統領を招くことが再確認された。これに先立ってジャイシャンカル外相も近くロシアを訪問する。パキスタンとの武力衝突ではロシア製長距離ミサイルS400が大活躍した。5600億ドルという巨額の資金を投じて5基購入したこのミサイルの2基は搬入がこれからである。
これとは逆に、インドは米国にF35ステルス戦闘機の購入に興味がないと伝えたとインドのメディアは伝えている。貿易赤字解消のために米国から武器を購入するという発想はインドにはないように見える。巨額の資金を投じたフランスのラファール戦闘機もパキスタンとの衝突で複数が撃墜された中、ロシア製兵器の比率を下げるというインドの方針には大きく歯止めがかかった格好だ。
モディ首相訪日で新幹線合意に期待
米印関係の悪化が日本に及ぼす影響も無視できない。日本外交におけるインドの戦略的位置づけは基本的に中国を念頭に置いたもので、クアッドの枠組みを始めとする「インド太平洋」戦略もそこに立脚している。米印関係悪化はそうした日本外交にも影を落とす。
8月末にはモディ首相が来日する。今回の訪日では次世代新幹線車両「E10系」を2030年代初頭にインドに導入する方向で合意するとみられている。当初インドでは「E5系」の導入が検討されていたが、見積もりの遅れや高額な費用から変更されたと報じられている。インドでは2027年8月に一部区間の営業運転開始を目指しており、「E10系」導入まではインド製の「バンデ・バーラト」を運行する予定である。インドでの現地生産も視野に入れている「E10系」の導入には、新たな円借款の枠組みが必要になるであろう。
訪日後に中国へ向かうモディ首相と石破茂首相がこのフラッグシップ案件の進捗を再確認できることは、順調な日印関係を中国に対してアピールすることになる。経済面だけで見るとインドにおける日系企業のビジネスは好調で、米印関係悪化がそれに及ぼす影響も少ない。日系企業の関心はあくまでインド国内の市場であり、インドから輸出するとしても輸出先はアフリカや中東の新興国市場だからだ。
政権基盤の弱い石破首相に安倍晋三元首相のように米印関係の潤滑油の役割を期待するのは無理だとしても、米印関係が最悪な中で、日印首脳会談の成果にせめて期待したい。(了)