本稿では、終戦後に生じた北朝鮮残留邦人に着目して、北朝鮮による日本人拉致を歴史的な視点から考えてみたい。
北朝鮮残留邦人とは、1945年8月の終戦時に北朝鮮に滞在、あるいはその後満州からの引き揚げの途上で北朝鮮に入境し、日本への帰国が困難になった人たちである。その多くは朝鮮戦争勃発(1950年6月)までに日本に戻ったが、途中で亡くなった人や帰れなくなった人がいた。日本統治時代、北朝鮮地域には重化学工業が集まっていたため、留め置かれた技術者もいた。戦前、共産主義者を取り締まっていた司法・警察関係の幹部は懲罰的に抑留された。残留邦人は1950年代半ばには2400人と推定されていた。
「北朝鮮残留日本人問題を考える研究会」
上記に関連して4月26日、都内で「北朝鮮残留日本人問題を考える研究会」が開かれた。同会の主催者は川島高峰・明治大学教授、三浦小太郎・アジア自由民主連帯協議会理事長、荒木和博・特定失踪者問題調査会代表である。参加者のほとんどはこれまで全国各地で拉致被害者、脱北者の支援を行ってきた人たちや、北朝鮮に拉致された疑いのある特定失踪者の家族である。
報告は「北朝鮮残留邦人の帰国問題 拉致事件の原点を考える」というタイトルで川島氏によって行われた。昨年上梓された『北朝鮮帰国事業と国際共産主義運動』(現代人文社)という著書をベースとしている。30年の歳月をかけた大作であるためいろいろなテーマを内包しているが、その中から「北朝鮮残留邦人」に焦点を当てて報告が行われた。
果たせなかった帰還
以下はその報告や同書から、私なりにポイントを拾い上げたものである。
北朝鮮に抑留された人の留守家族の一部は「待ちわびる心の会」という組織を作り、帰還を求める活動を行った。日本赤十字社も抑留者の安否を朝鮮赤十字に問い合わせるなどし、なんとか交渉に持ち込んだ。
しかし、その過程で残留邦人帰還という目標からはどんどん遠ざかっていく。旧社会党の一部議員が北朝鮮と気脈を通じて、北朝鮮を「支援」したのである。
日本が講和条約の成立で主権を回復すると、在日コリアンは「外国人」となった。長崎県の大村収容所にいた在日コリアンをめぐり問題が起きた。収容者には北の工作員も含まれ、また南北対立が持ち込まれてトラブルが相次いだ。韓国へ送還しようとすると、韓国は受け取りを拒否。国家承認していない北朝鮮へ送還するわけにもいかないのに、北朝鮮は自分のところへ帰すよう求めた。韓国側は、日本海に一方的に引いた李承晩ラインを理由に日本漁船を拿捕し漁民を抑留した。また、日韓間では正常化交渉が始まったばかりであった。
加えて日本は北朝鮮以外にソ連、中国とも抑留者の返還交渉をしなければならなかった。周辺国に事実上の「人質」を取られたままの困難な外交であった。
日赤が交渉を進め、紆余曲折を経て、平壌に集められた日本人36人(1人は虚偽申告をしており素性不明。他は朝鮮人と結婚した女性とその子供)が帰国したが、日本側が提示したリストにはない人たちだった。リストにあった人たちの多くが死亡または行方不明とされた。
北朝鮮残留日本人問題はほとんど解決することなかったのに、日本から北朝鮮への帰還事業だけが進んでいった。
悲しい歴史を心に刻む
では、以下、26日の研究会に参加して改めて痛感したことを述べたい。
残留邦人に関する北朝鮮の一方的な情報提供のやり方は、2002年の小泉純一郎首相訪朝の際にもたらされた拉致被害者情報と重なるものがある。小泉訪朝時は生きている人を「死亡」と伝えてきた。
さらに、どちらの場合も北朝鮮を支援する日本国内勢力があり、国際関係の構造の中で発生し、解決が困難になった。敗戦、共産主義の広がり、朝鮮半島の南北対立・分断、米ソを中心とした冷戦構造である。現在は米ソ冷戦こそ終わったが、米中対立をはじめウクライナ戦争における露朝接近など複雑な構図がある。最も重要なことは人権侵害を厭わない北朝鮮の特質に変化がないことだ。
北朝鮮残留日本人の存在を私も含め国民の多くは知らなかったり忘れたりしている。日本の土を踏めずに命を落とした人たち、抑留されて苦しい思いをした人たちがいる。そして「待ちわびる心の会」の活動は実を結ばなかった。こうした悲しい歴史を認識することが大切である。拉致問題の「前史」とも言えるからである。
拉致問題は時間的にも空間的にも広がりがある問題である。私たちは拉致問題を深刻なことだと捉えているが、実際にはそれ以上に深刻で厳しいのではないだろうか。(了)