韓国の李宇衍・元落星台経済研究所研究委員は、7月8日、国家基本問題研究所企画委員会にて、李氏と旧知の西岡企画委員の韓国語通訳で、慰安婦像のウソを糺すため訪独した様子や佐渡金山問題について語り、その後櫻井理事長をはじめ他の企画委員と意見交換をした。
李氏は昨年、国基研日本研究特別賞を受賞、ただしコロナ禍の影響で来日が叶わず授賞式はオンラインだったこともあり、今回は双方にとって待望の直接顔を合わせる機会となった。
【李氏報告の概要】
ドイツの慰安婦像
まずドイツに設置された慰安婦像の撤去を求め、先月末に訪独したときのことを紹介します。ドイツに到着してすぐベルリン・ミッテ区の慰安婦像の横で撤去デモをしました。私たちは総計7回の集会をし、私たちに対抗するコリア協会も集会し、その中にはドイツ人も日本人もいました。
ドイツ人たちの反応は良くなく、在独韓国人からは罵倒、罵声、冒涜を受けました。ただ彼らの集会では、まとまった演説がなく、韓国の挺対協(正義連)のスローガンしか聞こえませんでした。彼らの集会はムーダン(巫俗・霊媒師)が人形の前で踊るというパフォーマンスです。つまり、彼らには慰安婦問題の知識が全くないことを示しています。ムーダンを使いドイツ人の関心を引く作戦なのです。
今回の訪独の目的は、第1に慰安婦の実体はホロコーストでないことを明らかにすることで、第2はミッテ区長、区議会に対し、良識のある韓国人もいることを知らせることでした。しかし事前に約束した時間に区長は出てきません。区側は片方に偏らない姿勢を示したのだと思います。
区議会は永久設置の決議をしていますが、区長が決定権を持っています。この9月に設置から1年の期限がきますが、ミッテ区がどうするかは予測不能です。
今回の訪問では左派日本人と同様の反応をドイツで感じました。過去の先祖に全ての責任をかぶせる偽善を感じたのです。ドイツ人も戦争犯罪には敏感で、銅像まで作ったなら確定された事実だと考えます。ですから、ミッテ区の銅像が維持されたら在独韓国人は次の銅像も建て、さらには欧州中に慰安婦像を広げることでしょう。大いに懸念されます。
佐渡金山問題
次に佐渡金山の問題について話します。実は三菱(三菱鉱業、現三菱マテリアル)の資料が公開されていません。資料があると推定されるのが新潟県立図書館です。三菱から県立図書館に移管されたと思われます。今回の訪日で資料調査が叶うことを希望します。
佐渡金山で強制力ある動員すなわち徴用は300人から400人くらいと推定されます。それ以外は短期移民労働者でした。日本の立場からは戦時動員、朝鮮側からは出稼ぎ的短期移民労働者と見ることができます。私は戦時期の朝鮮人労働者を、韓国史の中で最初の大規模移民と位置付けたい。70万人の戦時動員以外に170万人の自発的渡航者がいました。戦時動員労働者70万人のうち50万人は戦時動員を利用した短期移民労働者でした。
そのようなことだから1939年から1945年は、朝鮮人の海外移住・移民が大量に発生した時期になります。佐渡金山は移住先の中でも待遇が良かったと言えます。死亡事故や負傷事故が非常に少なかったのです。実は日本の鉱山では戦争前から朝鮮人は働いていて、彼らを既住労働者と呼びます。彼らが戦時動員された朝鮮人労働者を教育したのです。
佐渡金山の待遇の良さは逃亡率が低いことでもわかります。朝鮮にいる家族を呼び寄せることもしました。労働争議も非常に少なく紛争発生率も低かったのです。
さらに労働条件は朝鮮半島に比べ非常に良かったといえます。栄養摂取の面でいうと、当時の朝鮮南部では平均1700キロカロリー以下でしたが、佐渡金山では4200キロカロリーでした。1945年から悪化したとはいえ3700キロカロリーありました。このような好条件だったからこそ朝鮮では日本への渡航を希望する人が後を絶たなかったのです。
戦時労働者は韓国史の中で最初の短期移民の爆発と見ています。佐渡金山は韓国人の移民の歴史の一部なのです。このような主張を韓国でしていくつもりです。
【略歴】
1966年、韓国全羅南道光州生まれ。2000年、成均館大学経済学科で「朝鮮時代、植民地期山林所有制度と林相変化に関する研究」で博士学位取得。2001年、ハーバード大学訪問研究員、2005年から2021年まで落星台経済研究所研究委員、2017年には九州大学韓国研究センター客員教授を務めた。昨年、西岡力著『でっちあげの徴用工問題』を韓国語に翻訳した功績で日本研究特別賞を受賞した。
著書には『反日種族主義』(共著、未来社、2019年)、『ソウルの中心で眞實を叫ぶ』(扶桑社、2020年)などがある。
(文責 国基研)