公益財団法人 国家基本問題研究所
https://jinf.jp/

最近の活動

2024.01.17 (水) 印刷する

弔辞 田久保忠衛さんへ

 田久保忠衛さん、田久保さんと共に歩んだ長い歳月が脳裡によみがえってきます。多くの貴重な学びを得た歳月、価値観を共有する喜びに満ちた歳月は、どこから振り返ればよいのかわかりません。
 田久保さんと親しくお話しするようになったのは1980年代後半、関嘉彦先生の勉強会に招かれた時からで、私は30代でした。民主社会主義に基づく日本の再建、シヴィック・スピリットとシヴィック・ライトの違い、ネーションとステートの違いなどについて関先生がゆっくりとした口調でお話しになり、田久保さんや屋山太郎さんら、私が仰ぎ見た論客が若き学生のように熱心に論ずる姿が心に焼きついています。
 以来、私はしばしば、田久保さんに教えを受けました。日本国の歩みや在り方、考え方の土台をどう構築するのか、そんなことばかりお聞きしていた気がします。
 常に大きな話題の一つが大東亜戦争の評価でした。日ソ・日露関係が日米、日中の関係とは本質的に異なること、日ソ関係においては、非は相手方にあり、日本人は60万余のシベリア抑留兵のことを忘れてはならない、この点を両国関係を考えるときの原点にせよという教えは、私の対ソ、対ロシア観の基本の一つとなっています。
 中国大陸で戦った軍人達の思いを知るために勧められたのが石光真清の四部作でした。真清ら軍人、そして彼らを支えた日本人女性たち、私が足元にも及ばない、彼ら、彼女らの強く果敢な日本人としての生き方に深く打たれました。
 日米関係をどうとらえるか。その基本はインドのパル判事による判決文全文と、アメリカの歴史学の泰斗、チャールズ・ビーアドの『ルーズベルト大統領と1941年戦争の到来』(邦題『ルーズベルトの責任――日米戦争はなぜ始まったか』)が必須の書であることも教わりました。
 1948年に73歳で亡くなったビーアド博士は冷静に正確に、ルーズベルトが如何にしてアメリカを第2次世界大戦に参戦させたかを書きました。ルーズベルトはアメリカが戦争に向けて準備をしていること、1941年8月のチャーチルとの大西洋会談ですでに参戦を決めていたことなど、おくびにも出さず、メディアを巧みに操りました。アメリカが戦争に至った原因はアメリカにもあるという事実の集大成をビーアドは出版したのです。
 周知のように、彼は反愛国主義だと非難され、アメリカの歴史学会会長としての名声も地に落ち、友を失い、孤立したのですが、田久保さんはそのビーアドの知的誠実さを高く評価していました。
 一方、わが国が大東亜戦争に突入した要因の一つ、統帥権問題を田久保さんは強く意識しておられました。統帥権、つまり政治と軍の関係をきちんと整理しておくことの重要性について、私たちは3年前、遅ればせながら田久保さんを座長とする政軍関係研究会を発足させたのでした。そして昨年11月、その成果を『「政軍関係」研究』として出版することができました。田久保さんは「いい本ができた。多くの人に読んでほしい」と喜ばれましたが、本当によい本に仕上がりました。
 話が先に進みすぎました。田久保さんの知己を得て、学び、鍛えられた私は16年間も働かせてもらった日本テレビを卒業し、筆一本で論陣を張る場に戻りました。世界の現実から目をそむけて観念論に浸る日本の言論界と戦う決意でした。そうしているうちに、政界では安倍晋三氏が「戦後レジームからの脱却」の声を上げたのです。
 しかし、第1次安倍政権から福田康夫氏の政権に移行しようというとき、こんな政治では日本は滅びると背筋が寒くなりました。政治に物を言うシンクタンクが必要で、それを創るのが使命だと考え、田久保さんたちと行動を開始しました。髙池勝彦氏、小倉義人氏らが加わり、田久保さんの後輩の冨山泰氏も準備に参加しました。田久保さんが渾身の設立趣意書を書かれ、目標の根本に憲法改正を置いた国家基本問題研究所が誕生しました。これが17年前、2007年冬のことでした。
 以来毎週金曜日、早朝から正午過ぎまで侃々諤々かんかんがくがくの議論をし、セミナーを開き、 意見広告を出し、政治家に厳しく提言する日々を重ねました。第1次政権後、失意の中にあった安倍晋三氏に、田久保さん、遠藤浩一さんと私の3人で、再度首相を目指すべし、日本を託すのはあなたしかいないと、説得したこともありました。
 そして私はネットで配信する「言論テレビ」を始めました。既存のメディアが決して取り上げない重要情報を果敢に発信する、小粒ではあっても真に独立した言論機関です。国基研と言論テレビは私の誇りです。車の両輪です。田久保さんは安倍総理と共に言論テレビの主役を務め続けて下さいました。
 こうした日々、田久保さんは病魔と闘っていました。田久保さん御自身が公表されたように、1998年1月、大腸ガンの手術をし、その後、肺、膵臓への転移で都合8回の手術を乗り越えました。腎臓も疲れ果てました。
 杏林大学病院前理事長の松田博青先生、御子息で現理事長の松田剛明先生らの献身的な努力のおかげで、田久保さんは病との厳しい闘いに耐え抜いただけでなく、その間驚くほど強靱な精神を保ち、思考の冴えは鈍ることがありませんでした。
 毎週金曜日、私は田久保さんの左隣で3時間から4時間、国基研のつわものと議論を交わしますが、気力を失くされたり、姿勢を崩されたりするお姿は一度も見たことがありません。逆に、議論が弛緩したとき、田久保さんは鋭いご指摘で私たちの頭脳に一撃を加えるのでした。静かなる貫禄と威厳を備えた姿はまさに武士、侍そのものでした。
 昨年12月中旬、体調を崩された田久保さんはご自宅で静養なさっていました。その時、電話で私におっしゃいました。
 「事態は思っていたより困難だ。嚥下えんげが困難、水も飲めない。ひどい食欲不振、体重は四六キロ。話すのも辛い。歩くのは部屋がやっとだ」
 私はお尋ねしました。横になっていらっしゃるとき、何をしておられるのかと。田久保さんは仰いました。
 「今、国体について読んでいる。昭和天皇はマッカーサーに迫られたとき、神の末裔まつえいであることは絶対に曲げないとおっしゃった」
 GHQが日本を、いわゆる「民主国家」にするために、昭和天皇に人間宣言をさせようとしたときのことです。昭和天皇は、御自身は神ではない、しかし、神話の中の神につながる神の末裔である。そうした民族の物語を否定するのは、日本国の成り立ちの否定で、国をうしなうに等しい。従って神の末裔であることは譲れないとして、日本の国体を守り通されたのです。
 占領軍が絶対的な力を振るったあの日々、どんなに厳しいやりとりだったことでしょう。内憂外患で動揺している日本国の現状の前で、田久保さんはこんなときこそ国の原点を揺るがせにしてはならないと、強くおっしゃりたかったのだと思います。
 また別の日、お具合がよくないとき、二人だけの時間があり、お聞きしました。
 「田久保さん、これからどのようになさりたいですか。全力で支えます。おっしゃってください」
 田久保さんは即座に答えました。
 「このまま、死ぬまで国基研で議論したい」
 私は納得し、万難を排してその環境を作ろうと決意しました。
 田久保さんが心を寄せた幕末の武士、橋本左内は26歳で瑞々しい命を奪われましたが、最後のその日まで日本国の行くべき道を考え、帝政ロシアとの連携を提唱するなど、当時誰も考えつかなかった大戦略を示しました。ろう習、旧弊に沈むことなく、広く世界を見渡して、日本の生きる道を模索した若き論客たちは安政の大獄で従容しょうようとして死を受け入れ、明治維新の礎となりました。
 彼ら、さらに大東亜戦争で命を捧げた人々から後事を託されているその後の日本人、今の私たちに、田久保さんは問い続けています。どんな国家像を描いているのか。まさか、米国の属領状態でよいと思っているのではないだろう、と。
 田久保さんの教え、田久保さんの日本国への信頼と危機感、勇気づけと叱咤しった。私はそれらを心に刻み、日本国の展望を切り拓く努力を続けたいと思います。もう、田久保さんの言葉を聞くことはできません。遠くを照らしていた光が消えたような心細さです。けれども、必ず歩み続けます。辿たどり着くまで、諦めることはいたしません。
 このことをお誓いし、海よりも深い感謝を込めて、田久保さん、敬愛する田久保さん、今生のお別れといたします。
 

令和6年1月16日
国家基本問題研究所
  理事長 櫻井 よしこ