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2025.09.08 (月) 印刷する

「チベット問題の現状と今後」 平野聡・東京大学教授

9月5日(金)、国基研企画委員会は東京大学の平野聡教授を招き、チベット問題の現状について講演を聞き、櫻井よしこ理事長をはじめ企画委員らと意見交換した。

【概要】
ダライ・ラマ14世が7月2日、自身の死後に伝統的な手続きを踏襲することにより次世代のダライ・ラマが続くことを確約し、中国が自らの方針を無視してくじ引きで選ぶという方針に明確に反対した。チベット仏教の精神を長年体現してきた14世だが、高齢という限界には抗しきれないのであり、対応を適切に進めることは喫緊の課題とも言える。

〇世界国会議員会議
目下のチベット問題を集約して世界が広く認識を共有する枠組みとして、各国国会議員有志の取り組みは注目に値する。本年6月2日から4日にかけ衆議院第一議員会館においてチベットの人権や自由について議論する「第9回チベットに関する世界国会議員会議」が日本で初めて開催され、世界29か国130人の代表が集まった。
チベット高原は、チベット自治区に加えて青海省、四川省、甘粛省、雲南省にまたがる広大な地域である。チベットでは、かつてはインドなど外国との往来は比較的自由であったが、習近平時代になると極めて制限され、情報統制も強化されている。そしてチベット仏教の信仰が侵害され、中国共産党が代表する中国文明の価値観への従属を強く迫る政策が進展する中、同会議ではチベット文化やアイデンティティの維持に向けた連帯を確認する東京宣言が採択された。

その内容は、①チベットが独立国家であった事実を再確認する、②チベット人の漢族への強制同化を非難する、③チベット仏教の中国化を糾弾する、④在外チベット人への干渉を懸念する、⑤パンチェン・ラマ11世を含むチベット人政治犯の釈放を求める、⑥チベット仏教の輪廻転生に対する中国政府の干渉を受けない、⑦チベットの水資源を保護する、⑧チベット英語表記の中国式Xizang変更に反対する、などである。

中国政府が宣言を簡単に受け入れるとは思われないが、果たして、チベットの現実はどうなっているのか、上記を参考にいくつかの事例について以下解説する。

〇チベットの歴史的独立国家性
前近代においては主権という概念がなく、影響力をどう解釈するか互いに曖昧な関係が世界の至る所であったが、チベットについても清朝と関係を持ち影響を受けつつ、独自の中央集権体制を運営してきた。しかし19世紀後半に清が欧米日と近代外交を始め、さらに清末に中国ナショナリズムが起こる中で、乾隆帝が残した影響力のまとまりの内側を強く抑え込み、さらに近代国家・中国に作り変えようとすると、チベットは強く反発した。

そのような中で英国は、当初「Chinaがチベットに対し主権(宗主権)を行使している」との認識で、チベットをめぐる問題でも北京と交渉していたが、その成果をチベットが無視し、さらにロシアに接近するのを目にして、強い危機感に陥った。そこで英領インドは、北京の影響は有名無実と判断し、1903年から4年にかけてヤングハズバンド武装使節団を送り、チベット軍と衝突のうえチベット側に直接要求を呑ませようとした。この事実は、チベットにおける「中国の主権」なるものが今世紀初頭まであったのかを考えるうえで、瑕疵があることを示す一つの事例と捉えることも可能である。

その後、1905年には清末新政が始まり、中国の近代国家建設が本格化すると、北京はチベットに対しても強硬に主権を行使し中国的近代化を強要しようとした。これまでチベットにとって、仏教の敵は英国であったが、これをきっかけに英国を頼り、チベット自身の近代国家・近代社会を模索し始めた。

このような歴史的な経緯に照らして、チベットの独立性や自決権・抵抗権が議論される余地は大きい。

〇チベット人アイデンティティの破壊程度
チベット人のアイデンティティは、1950年代後半以来、約70年間にわたる中共による圧制の下にあっても、一貫して維持されてきた。

チベット人は表向き現在の中共の統治に従っているが、それは彼らのアイデンティティが弱まった・破壊されたことを意味しない。現に、2000年代にはダライ・ラマが贅沢を戒める発言をしたのをうけて、各地で高級な毛皮の晴れ着を自発的に焼く事件が起こったが、それはチベット人の間でダライ・ラマに対する尊敬とともにチベット人意識が行きわたっていることの証左であろう。

そもそも、チベット人のアイデンティティは、1950年代に中国が進めた「民族識別」によって「蔵族」として公定・固定化され、さらに毛沢東時代における漢人党幹部などの横暴に直面する中で強まった。中国は「中華民族の兄弟民族関係」として、漢族と55の少数民族が中華民族大家庭の関係を築く予定だったが、少数民族が少数民族として固定され個別性を持つことによって、必ずしも中国の思惑通りにはなっていない。

〇後継者の活仏を選ぶのは教団か共産党か
本来活仏選びはチベット仏教の教団側が実施することを基本とするが、中国共産党は政府が主催する「くじ引き」とした。中国は国家宗教事務局令として「蔵伝仏教活仏転生管理辦法」を制定し、著名な活仏は「金瓶掣籤」(くじ引き)を実施すべきと規定した。

これは清朝の乾隆帝が設けた制度であり、近現代中国が自らを「清朝の継承国家」と称することで、「乾隆帝が定めた制度をその通りに実施することが主権のあらわれ」と称している。しかし、この制度は共産党にとってもリスクがある。そもそも仏教(前世や来世)を信じない共産党政権が活仏を選ぶことは、マルクス主義の核心をなす唯物史観に悖る。

ダライ・ラマ14世が今回、明確に「くじ引き」を否定したことから、今後、中国政府との対立が深まることが予想される。14世の高齢を考えると、まさに喫緊の課題である。

【略歴】
1970年、神奈川県横浜市出身、1994年東京大学法学部卒、1999年東大大学院博士課程単位取得退学、法学博士。アジア政治外交史の専門家、2003年東大大学院法学政治学研究科助教授、2014年から同教授。著書『清帝国とチベット問題』(名古屋大学出版会)で2004年サントリー学芸賞を受賞。他に『大清帝国と中華の混迷』(講談社)、『「反日」中国の文明史』(ちくま書房)などの著書がある。 (文責国基研)