8月22日付、韓国の「中央日報」に「慰安婦の少女像、アルメニアから学べば」というコラム記事がある。著者は韓国で国際派の記者として知られる南禎鎬氏で、去年邦訳が出た『私の愛、ナムジュン・パイク』(平凡社)の著者の一人でもある。
南氏によれば、慰安婦の少女像がカリフォルニア州グレンデール市に続き、ミシガン州デトロイト市にも建設されたが、これは必ずしも満足すべきことではない。グレンデール市の少女像が、市議会の承認を経て、市の中心部に設置されたのに対し、デトロイトのそれは韓国文化会館の前庭。つまり韓国人の私有地に設置されたもので、これでは現地の人々に慰安婦問題を知らせることができないからである。
なぜこんな違いが生じたのか。グレンデールにはアルメニア人が多数居住しているからである。アルメニア人は20世紀初頭、オスマン帝国によって無慈悲に虐殺された民で、 生き残ったアルメニア人はその後世界に離散、多くが米国に移住、グレンデール市にはとりわけ多くが居住し、現在同市の住民の30%ほどがアルメニア系である。彼らは「日帝に苦しんだ韓国人に同情的」であり、少女像を建てることができたのも彼らのおかげである。
南記者はさらに話題をユダヤ人虐殺にシフトし、その歴史を記憶するための博物館や記念碑、造形物が世界20か国65か所にあるといい、実はアルメニア人虐殺関連の施設も世界15か国、33か所にあるという。そして両者に共通するのは、連邦政府や地方自治体の公式決定で推進され、公共の場所に設置され、公共機関によって管理されているという点で、これに比べると、米国には今、慰安婦少女像が2つと記念碑が6つあるとはいえ、いくつかは韓国人の私有地に建てられたもので、これでは満足すべきものではないという。
南氏のコラムをなるべく忠実に紹介したが、右の文に特徴的なのは慰安婦の犠牲者性や「日帝」の加害者性が自明のこととして語られるとともに、その犠牲者性がユダヤ人やアルメニア人のそれに安易に結びつけられてしまうという態度で、幽界にいるユダヤ人やアルメニア人たちが耳にしたら、さぞ驚くに違いないのだが、韓国人読者のなかに違和感を覚える者は少ないであろう。
慰安婦問題については、最近の「朝日新聞」による慰安婦虚偽報道にまつわる一連の議論を機に論点が整理された部分もあるが、相変わらず、重要なことが語られていないなと思う部分もある。たとえば八月七日付『読売新聞』で現代史家の秦郁彦氏は「慰安婦問題では、官憲による組織的、暴力的な強制連行の有無と、慰安所における慰安婦の生活が、『性奴隷』と言われるほど悲惨なものだったかが重要な争点だ」という。これは正論であるが、しかし、なにを事実と考えるかは人々のアイデンティティによって規定されるもので、韓民族の犠牲者性や日本軍の加害者性をアプリオリに信仰するものには、こうした指摘はむしろ事実を歪めるものと見なされてしまうのである。
南記者の文は次のように続く。歴史的悲劇を伝える施設は、後世のためにと同時に、外国人に真実を伝えるために不可欠なものである。日帝の収奪と軍の慰安婦問題などがより知られてこそ、韓国人が日本を簡単には許せない理由が理解されるのであり、さもないと、過去史の問題で安倍政権との間に摩擦を起こしている韓国政府の方が姑息に見られてしまいかねない。
このように記すと、日韓の国民間にある歴史認識の断層にばかり注意がゆきそうだが、断層は日本人の間にもあることを忘れてはならない。たとえば大学の世界でいえば、ポストコロニアリズムやカルチュラル・スタディーズ、ジェンダー、エスニシティといった新しい外来思想に従事する日本人研究者たちの慰安婦に対する眺めは、おそらく南記者のそれと大差ないものであり、秦氏の指摘も事実を歪めるものと見なされるだろう。ちなみに、これら新しい外来思想家たちは今や人文・社会科学に大きな影響力を発揮する勢力であるとともに、国際社会に発信力をもち、彼らこそは実は慰安婦問題の目立たぬ立役者であったのである。彼らが安泰である限り、歴史道徳的な日韓関係が変化するということもおそらくないだろう。