安倍晋三首相が、9月11日の参院平和安全法制特別委員会で、潘基文(パン・ギムン)国連事務総長の中国「抗日戦争・反ファシズム勝利70年式典」出席について、「国連は中立であるべきだ。事務総長が式典に出席し、軍事パレードを参観したことは極めて残念だ」「国連事務総長はいたずらに特定の過去に焦点を当てるのでなく、自由、民主主義、人権、法の支配といった基本的価値に基づく国際社会の融和と発展を推進する立場から、未来志向の姿勢を取るよう、加盟各国に促すべきだ」と批判した。当然のことである。
この問題については、太田文雄氏が9月7日付国基研「直言」で、中国共産党政権が「国際的に最初に行ったことは朝鮮戦争への介入で韓国に侵攻し国連軍と干戈を交えて挑戦したことである。その韓国の大統領と国連の事務総長が軍事パレードに参列することは中華人民共和国の侵略を是認する事になる」と重要な指摘をしている。
筆者も、8月31日付同「直言」で、「かつて自由と民主化を求める多くの若者の血を吸った天安門広場で、他ならぬ人民解放軍が軍靴を響かせる様子を観閲することは、ユダヤ人強制収容所のあったアウシュビッツでネオナチが行進するのを黙って見過ごすのに似ている。ロシアと韓国を除く主要国が首脳級の派遣を見送ったのは、国際社会が最低限の常識を示したものと言える」と書いた。
近年の中国政権は、加えて、南シナ海・東シナ海などで、国際法を無視した、軍事力と経済的報復を露骨に武器とした支配圏拡張に余念がない。本来、国連から追放されて然るべき存在である。
その中共政権に対する擦り寄りは、しかし潘基文氏にとって初めてのことではない。むしろ日常的光景に近い。
筆者は、2010年10月9日、「中国政府の人権対応を讃えた潘基文、倒錯の媚び」と題した一文で、次のように述べた。
《中国の民主化闘士・劉暁波氏の8日のノーベル平和賞受賞について、国連事務総長・潘基文が、中共当局の人権擁護努力を褒め称える呆れ果てたコメントを出した。その内容の異様さは、ノーベル平和賞委員会の発表文と比較する時、一層明らかとなる。
ノーベル賞委も潘基文も、まず初めに、中国が近年目覚ましい経済発展を遂げたと指摘している。が、ノーベル賞委がつづいて、「しかし中国は自ら署名したいくつかの国際協定や自ら政治的自由を定めた国内法の規定に違反し」言論の自由を抑圧していると批判したのに対し、潘基文は、あろうことか、「近年、中国は政治参加の枠を拡げ、一般的な人権擁護の仕組みや慣行を遵守することで、着実に国際社会の主流に加わってきた」(Over the past years, China has.… broadened political participation and steadily joined the international mainstream in its adherence to recognized human rights instruments and
practices.)と、逆に中共政府を賞賛している。
潘基文の脳裏にあるのは自己の事務総長再選だろう。常任理事国の一国でも反対すると事務総長の職に就けない。
所詮、盧武鉉(ノ・ムヒョン)の下で、何の疑問も抱かず外交通商相を勤め上げた男だけに期待はしていなかったが、ここまで露骨に中国に媚びたステートメントを見せられると、その卑小さに驚かざるをえない。》
2006年10月14日、潘基文氏が国連事務総長に当選した時、日本は非常任理事国として安保理の一員だった。第一次安倍政権の発足(同年9月26日)直後であり、選任に至る水面下の交渉は小泉政権末期に進められた。
このように何の理念も羞恥心も持たない人物が、あくまで事務局の長とはいえ、なぜ国連の顔と言うべき立場に就き得たのか、改めて当時の経緯を検証する必要がある。