2014年7月23日付のこの「ろんだん」で、「英国の史家A.J.P.テイラーの満州事変論」を紹介した。
日本国内に未だ根深い、単純な(村山談話的な)日本侵略史観を改めるには、海外の優れた史家によるふくらみある論が広く知られる必要があると思うゆえである。
中心部分のみ再度引いておけば、テイラーは古典的名著『第二次世界大戦の起源』(A.J.P.Taylor, The Origins of the Second World War, 1961)の中で次のように述べている。
《1931年9月18日、日本軍が、理論上は中国の一部である満州を占領した。日本側には十分な言い分があった。中国の中央政府の権力は(どの地域でも強くはなかったが)、満州に及んでいなかった。そこは久しく無法な混乱の状態にあった。日本の交易上の権益はひどく損なわれていた。中国では、列国が単独行動に出た先例は多々あり、その最も近いケースは、1927年のイギリスによる上海上陸だった。》
《(国際連盟が現地調査に派遣したリットン)調査団は単純な決定には至らなかった。日本側の苦情のほとんどは正当なものと認められた。日本は侵略者として非難はされなかった。もっとも、救済のためのあらゆる平和的手段が尽くされる前に軍事力に訴えた点で非難はされたが。》
ところが、安倍首相「戦後70年談話」に向けて設置された「21世紀構想懇談会」報告書(2015年8月6日)を見ると、満州事変について次のような記述がある。
《国際連盟と不戦条約による戦争違法化の流れに大きな打撃を与えたのが、1931年の満州事変であった。日本による平和の秩序の破壊は、イギリスの歴史家E.H.カーが、「日本の満州征服は第一次世界大戦後のもっとも重大な歴史的・画期的事件の一つであった。」と述べたように、英国やフランスといった欧州諸国に大きな衝撃を与えた。》
人類は社会主義実現に向けて否応なく動いていく、それを促進する者は進歩の徒、逆らう者は反動の徒という容共史観に立つE.H.カーの一句のみを権威として引くのは不見識という他ないだろう。カーの立場からは、社会主義を掲げるソ連の対抗勢力は、日本を含め、必然的に反動となる。
アカデミズムの世界が遙かに左傾していた時期、すなわちソ連東欧共産圏の崩壊以前、E.H.カーは知識人の間でよく引かれた。容共であって碩学というカー的な姿勢は、左翼リベラル派にとって心地よいものだったのだろう。しかし、未だに安倍首相の諮問機関の報告書がカーを最大権威として引用するとなると、これは明らかにバランスを失している。
比較のため、テイラーの、先に引用した諸文章の前後を補足的に引いておこう。
《イギリスは、つねに国際連盟を、安全保障の装置ではなく、和解の道具と見ていた。……(満州問題での対日批判に)抗議し、日本は連盟から脱退した。しかし実際、イギリスの政策は成功したのである。中国側は久しく自らの支配下になかった地域を失うことに折り合いを付けた。結果、1933年、日支間に平和が回復された。ところが後年、満州問題は神話的な重要性を帯びるに至る。戦争への道における画期的事件、特にイギリス政府による、連盟への最初の決定的な「裏切り」と見なされるに至った。
現実には、連盟は、イギリスのリーダーシップの下、連盟の所期の目的とイギリス側が考えるところの役割を果たした。すなわち、紛争を局限化し、不満足なものとはいえ、終局をもたらした。さらに、満州問題は、連盟の強制力を弱めたどころか、それを現実に生み出した。満州事変のおかげで、連盟は、やはりイギリスの促しによって、それまで欠いていた経済制裁を組織する仕組みを作り得たのである。》
英国の史家の古典的議論を引くというなら、せめてカーとテイラーを並べるぐらいのバランス感覚を21世紀懇は持つべきだったろう。